第一章 三一の神は奥義である

三一の神・目次>第一章 三一の神は奥義である

  1. 神は唯一である
  2. 神は三一 —父、子、霊である
  3. 奥義中の奥義
  4. わたしたちは理解することはできないが、享受することはできる

1.神は唯一である


申命記4:39  きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。 (新改訳)

イザヤ45:5  わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。(新改訳)

イザヤ46:9  遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。(新改訳)

1テモテ2:5  なぜなら、1 ひとりの神がおられ、また神と人との間にひとりの仲保者、すなわち人なるキリスト・イエスがおられるからです.

2:5ノート1  神は三一、御父、御子、その霊ではありますが、ひとりの神です。多くのクリスチャンが誤って認識し、信じているような三人の神ではありません。(ウィットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

1テモテ1:17  今や、もろもろの時代の王、朽ちることのない、目には見えない、唯一の神に、誉れと栄光が永遠にわたってありますように。アーメン。

  聖書は多くの事例において、また多くの方法において、神が唯一無二であることをわたしたちに告げています。旧約と新約の両方において、この事を宣言している個所が多くあります。ここで数か所だけを選んでみます。コリント人への第一の手紙第八章四節:「唯一の神のほか、神はない」。イザヤ書第四五章五節:「わたしがエホバである。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない」。六節二一節二二節、それから第四六章九節第四四章六節八節においても、わたしたちは同じような言葉を見いだします。

  これらの部分において神は、「わたしのほかに神はいない」と繰り返し言っておられます。彼は、「わたしたちのほかに神はいない」と言っておられるのではなく、「わたしのほかに神はいない」と言っておられます。「わたし」は単数形であり、唯一です。神についてこのように繰り返し宣言されていることは、神が唯一無二であることを強く証明しています。

  詩篇第八六篇十節:「あなただけが神です」。ここでは、「あなたがただけが神です」と言っているのではなく、「あなただけが神です」と言っています。これもまた、神が唯一無二であることを証明しています。それは「あなた」であって、「あなたがた」によって象徴される多くの者ではないのです。

  神が一であることは、聖書の中のはっきりした明確な啓示です。しかし、キリスト教では、聖書の中で明確に述べられている啓示に基づいた正当な教えや解釈のほかに、ある人は、三人の神がいると言います。すなわち、御父が一人の神であり、御子が一人の神であり、その霊が一人の神であり、これら三者が一人の団体的な神になると言うのです。彼らが言うには、個人的な面から言えば、三人の神がおられるのであり、団体的な面から言えば、一人であるのです。別の人たちは、二人の神がおられると言います。すなわち、御父が一人であり、御子も一人ですが、その霊はそうではないと言います。なぜなら、御父はご自身のパースンを持っており、御子もご自身のパースンを持っていますが、その霊は電気のような単なる力、手段であって、パースンを持っていないからであると言います。

  三人の神や二人の神の存在に関するそのような発言は、聖書の根本的な啓示に矛盾します。ですから、わたしたちはそれらを受け入れるべきではありません。わたしたちは絶対的に聖書の啓示の上に立って、神が一であることを信じなければなりません。

(ウイットネス・リー, 三一の神 すなわち、父、子、霊に関して, 5-7)

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神はユニークに一つである

  わたしたちは、神はユニークに一つであるという啓示に支配されなければなりません。

  聖書は、神は一つであると告げています。しかし聖書で最初に神(エロヒム)という語が出て来るのは、複数形においてです(創1:1)。ですから、ある人たちは神々(Gods)と訳しています。これは途方もないことです。「神々(Gods」などと言うと、ぞっとします。詩篇86篇10節では「ただ、なんじ(thou)(単数)のみ、神でいらせられます」と言っています。それは、「ただ、なんじら(ye)(複数)のみ、神でいらせられます」とは言っていません。代名詞は第二位格の単数であり、第二位格の複数ではありません。この節での、神というヘブル語、エロヒム(Elohim)は三重の数です。もし、Newberry Bibleの印づけを調べてみるなら、ここでの「神」は、三重の数を示していることを見るでしょう。しかし、詩篇86篇10節は、「なんじは神々(Gods)でいらせられます」とは言っていません。それは、「ただ、なんじのみ、神(God)でいらせられます」と言っています。「ただ……のみ」という語が、わたしたちの思考をコントロールしなければなりません。「ただ、なんじのみ神(Godである、Godsではない)でいらせられます」。

  たぶん、何人かが尋ねるでしょう。「もし神はただ一つであると言うなら、創世記1章26節でいったいどうして神はご自分のことを『われわれ』と言及し、また、『われわれのかたちに』と言われたのでしょう。神は一つなのでしょうか、それとも一つ以上なのでしょうか。もし神は一つだと言うなら、いったいどうして彼はご自分のことを『われわれ』 とか、『われわれの』とか言う、複数代名詞を用いて言及されたのでしょう」。わたしの答えは、彼は三で一の神であり、三で一は奥義であるということです。

  もし三で一を徹底的に理解でき十分に定養できるとしたら、それはもはや奥義ではありません。数学や化学の領域では、物事は人間の知性によって科学的に分析できます。それは科学であって、奥義ではありません。もしあなたのたぶん利口な知性を使って三で一の神を理解することができるとしたら、彼はもはや奥義ではありません。わたしたちのだれも三で一を十分に理解できないからこそ、それはいつまでも奥義なのです。なぜかとわたしに問わないで下さい。なぜであるかわたしは知りません。わたしが言えることは「聖書がそう言っている」ということだけです。

(ウイットネス・リー, 純粋な聖書の言葉による、三で一の神の啓示, 2-6)

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2. 神は三一 — 父、子、霊である

マタイ3:16  イエスはバプテスマされると、直ちに水から上がられた.すると見よ、天が彼に開かれた.そして彼は、神の霊がはとのように下って、彼の上に来るのをご覧になった。

マタイ3:17  すると見よ、天からの声が言った、「1 これはわたしの子、愛する者、わたしは彼を喜ぶ」。

3:17ノート1  聖霊が下って来ることはキリストの油塗りであり、御父の語りかけは愛する子であるキリストへの証しでした。ここに神聖な三一の絵があります。御子は水から上がりました。その霊は御子の上に下りました。御父は御子について語られました。これは父、子、霊が同時に存在することを証明します。これは神のエコノミー達成のためです。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

マタイ28:19  だから、行って、すべての国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして、

2コリント13:14  主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にありますように。

御父、御子、その霊はひとりの神である

  御父、御子、その霊はひとりの神です。第一ペテロの第一章二節は、御父は神であると告げています。ヘブル人への手紙第一章八節は、御子は神であると告げています。使徒行伝第五章三節から四節は、その霊は神であると告げています。もしあなたが聖書を浅薄に読むなら、あなたは御父、御子、その霊は三人の分離したパースンであると思うかもしれません。しかし、ヨハネによる福音書だけでも注意深く読み、その真理の深みへと入り込むなら、あなたは、御子が御父の名の中で来られ、御父のみこころを遂行し、御父と共に、御父の名の中で御父のわざをなし、御父の言葉を語り、御父の栄光を求められたことがわかるでしょう。もしあなたがこれらの要点を扱っている節の深みに触れるなら、御子と御父とは一であることを認識するでしょう。あなたは彼らを分離することはできません。

  同じように、その霊は御子から分離していません。これらの二つの称号からは、それらは二つの分離したパースンであるように見えます。しかし、あなたがこの問題を扱っている節の詳細の深みに入り込むとき、あなたはその霊が御子の名の中で来られること、その霊は御子について証しするために来られること、そして御子の栄光を現すことを、見るでしょう。さらにまた、御子は、ご自身であられるすべてのもの、ご自身が持っておられるすべてのものを、その霊に与えられました。これらの要点は、その霊と御子が一であることを示します。もしその霊と御子とが一でないとしたら、どのようにしてその霊は御子の名の中で来ることができるでしょうか?どのようにしてその霊は御子の栄光を現すために来ることができるでしょうか? どのようにして御子は彼にあらゆるものを与えることができるでしょうか? 最終的にあなたは、彼らが一であることを承認しなければなりません。御子と御父が一であること、その霊と御子も一であるというこのような認識は、ヨハネによる福音書の中の明瞭な啓示によるものです。

  これらすべての事柄を一緒にすると、あなたは一つの決定的に重要な点を見ます。すなわち、これらの三、すなわち御父、御子、その霊は、ひとりの神であるということです。それらは決して分離され得ません。第二は第一の名の中で、第一と共に来られます。そして第三は、第二の名の中で、第一によって遣わされました。そして第一と第二と共に来られました。ですから、彼らはすべて相互内在しています。御子は御父の名の中におり、御父は御子の名の中にいます(ヨハネ14:10–11)。彼らは互いにミングリングされています。どうして彼らは分離され得るでしょうか? 三者は一です。第三は第二の変ぼうです。また第二は第一の具体化です。御子は御父の具体化です。そしてその霊は御子の変ぼうです。そのような表現は、実は彼らが一であることを意味します。もし御子が御父と一でないなら、どうして御子が御父の具体化であることができるでしょうか? もしその霊が御子と一でないとしたら、その霊はどうして御子の変ぼうであることができるでしょうか?

(ウイットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上), 225-227)

  全宇宙がその上に焦点付けられている神そのものは、単独な神ではありません。彼は三一です。旧約も新約も三一の神に言及する際、複数形の代名詞を使います。創世記第一章二六節で神は言われました、「われわれのかたちに、われわれの姿に人を造ろう」。ここで、「われわれに」(us)と「われわれの」(our)という複数形の代名詞が使われています。それから、ヨハネによる福音書第十四章二三節後半で主イエスは言われました、「わたしたちは彼の所へ行って、彼と共に住まいを造る」。「わたしたち」とはだれでしょうか? 御父と御子です。ですから、わたしたちの神は三一です。全宇宙は神に焦点付けられています。そして彼は三一、すなわち父なる神、子なる神、霊なる神です。

  あるクリスチャン教師たちは三一に関する教えの中で、御父を御子と分離します。また彼らは、御父と御子をその霊から分離します。彼らの教えでは、御父、御子、その霊は三つのパースンであって、区別があるだけでなく分離していると言うのです。多くのクリスチャンはこのように三一を認識しています。すなわち、御父は天の御座に座しておられ、御子は御父の右に座しておられるのです。ですから、御父と御子は共に天におられ、その霊が地に下って来られたのです。これは、彼らの観念では神たる方の三分の一が地上におられ、神たる方の三分の二が天におられることを意味します。わたしは、あなたも依然としてこの種の観念を持っているのではないかと気がかりです。この間違った教えは、パン種の入った真理です。御父、御子、その霊、すなわち三一の神は、聖書の中の真理です。しかし、それにパン種が入りました。パン種はパンを柔らかくし食べやすくするために小麦粉に加えられます。それと同じように、理解しやすく食べやすくするためのパン種が聖書の真理に加えられました。神たる方の三一が、三つの分離したパースンに分けられ得るという観念を持ってはなりません。これはパン種です。神は三一ですが、彼は一です。御父は御子から分離していませんし、その霊から分離してもいません。その霊は御子から分離していませんし、御父から分離してもいません。三は決して分離されたことがありません。三は、すべての時、同時同存し、相互内在しておられるのです。一がここにあるとき、三のすべてがここにあります。一が天にあるなら、すべては天にあるのです。三は常に一です。何の分離もありません。これが、三一の神がわたしたちの中に分与されるために、聖書の中で啓示されている一つの奥義なのです。

  仮に、聖書が神を三一の神ではなく、唯一の神、創造者なる神として啓示しているだけだとしたらどうでしょう。もし御父もなく、御子もなく、その霊もないとしたら、神はご自身をどのようにしてわたしたちの中に分与することができたでしょうか?神がご自身をわたしたちの中に分与することは、小さな事ではありませんし、そんなに簡単な事でもありません。わたしたちは堕落しています。わたしたちには罪、この世、サタンの諸問題があります。これらのものをどのようにして取り去ることができるでしょうか?だれかが罪を罪定めし、この世を裁き、サタンを追い出す必要があります。神聖な分与の中で、このだれかとは御子です。御子は御父によって遣わされて、十字架上の彼の死を通して罪を罪定めし、この世を裁き、サタンを追い出されたのです。十字架上で死ぬために、彼は人性を着る必要がありました。血と肉のない神がどうして十字架上に釘づけられ、もろもろの罪の赦しのために血を流すことができるでしょうか?それは不可能でしょう。ですから、御子は血と肉を着なければなりませんでした。それは彼が十字架に行き、肉体的に死ぬことができるためです(へブル二・十四)。彼が人性を着られたのは、人の血を流してわたしたちの罪を洗い去ることができるためでした。彼はこの世を裁きました。また彼はサタンを追い出しました(ヨハネ十二・三一)。

  なおまた、もし神が唯一の神にすぎなかったとしたら、彼はどのようにしてわたしたちの中に入ることができたでしょうか? わたしたちの中に入るためには、神は命を与える霊でなければなりません。その霊はわたしたちが吸い込む聖なる息です(ヨハネ二〇・二二)。

  これらの例証は、三一の神の問題は単に教えのためだけではなく、実は分与のためであることを認識する助けとなるでしょう。教理的に言って、わたしたちは三一の神を十分に理解しないかもしれません。しかし、経験においてわたしたちは、御父、御子、その霊がわたしたちの中におられることを証しすることができます。これは、わたしたちの側では経験のためです。神の側では分与のためです。

(ウイットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上), 205-208)

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3. 奥義中の奥義

イザヤ9:6  ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 (新改訳)

マタイ28:19  だから、行って、すべての国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして、

ヨハネ1:1  初めに言があった.言は3神と共にあった.言は神であった。
1:2  彼は初めに神と共にあった。

1:1ノート3  言と神は分離していません。言は言であり、神は神であって、互いに分離しているのではありません。むしろ、その両者は一です。ですから次の文章で、言は神であったと言っているのです。(ウィットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

2コリント3:17  そして主はその霊です.そして4主の霊のあるところには、自由があります。

3:17ノート4  主の霊は主ご自身であり、自由は彼と共にあります。(ウィットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

  わたしたちはひとりの神を持つのでしょうか、それとも三人の神を持つのでしょうか?わたしたちはただひとりの神を持つと、強調して言わなければなりません。しかしながら、何人かのクリスチャンは、知的な理解によって、三一を理解して、三人の神を信じるに至りました。ある人がかつてわたしに、父、子、霊は三人の神であると告げました。これを聞いた時、わたしは言いました、「どうかそのように言わないでください。それこそ真に異端です。聖書は決して三人の神があるとは告げていません。聖書は常にひとりの神があると言っています」。わたしたちの神は一です(申六・四イザヤ四五・五Iコリント八・四)。なぜ、あるいはどのようにして、このひとりの神が、三つのパースンを持つことができるのでしょう? 「パースン」という言葉は聖書の中に見いだされません。それは人の解釈から来ます。ローマ人への手紙の最良の注解書の筆者グリフィス・トマスは、彼の著書「神学の諸原則」(Principles of Theology)の中でこう言っています、「パースンという用語も時には反対を受ける。それは確かにあまり極端に押し進められてはならない。そうでないと、三神論になるであろう……わたしたちが「実体」(substance)や「パースン」(Person)のような用語をやむを得ず使う場合も、それらを人の実体や人格として理解しているものと同一と考えるべきではない……三一の経験の真理は神学的述語にかかっているのではない」。グリフィス・トマスはまた、わたしたちの人の言語はこの神聖な奥義を説明するには不十分であると言いました。わたしたちは言語、表現能力、用語に欠けています。わたしたちはこの神聖な奥義の正しい理解力に不足しています。わたしたちはどのような用語を使うべきでしょう? わたしたちはわからないのです。利用し得る適切な用語はないのです。三一は奥義であって、わたしたちにはそれを表現する媒介、手段はありません。ピリポが主イエスに、自分と他の弟子たちに父を見せてくださるよう求めた時、主は言われました、「ピリポよ、わたしがこんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、あなたはわたしを知らなかったのか? わたしを見た者は父を見たのである。どうしてあなたは、『わたしたちに父を見せてください』と言うのか?」(ヨハネ十四・九)。
        
  わたしは主イエスはその霊であると言っていることで、罪定めされてきました。わたしは議論や弁解を好みませんが、わたしを罪定めするそれらの愛する兄弟たちに、「そして主はその霊です」と言っているコリント人への第二の手紙第三章十七節をどのように解釈するかと、聞いてみたいと思います。「それでは主とその霊は一なのですか?」と尋ねないでください。わたしたちにはこれを十分に説明する技量も手段もありません。それを十分に説明することはできませんが、「そして主はその霊です」と言っている聖書の節があるのです。あなたはこの節をどこに置くでしょうか? あなたはそれを、あなたの聖書から切り去るのでしょうか? わたしはまたそれらの兄弟たちに、「ひとりの男の子が、わたしたちに与えられる……そして彼の名は『……永遠の父……』と呼ばれる」と言っているイザヤ書第九章六節を提示したいと思います。彼は子でしょうか、父でしょうか? 再び、これを十分に説明することはできませんが、子が父と呼ばれるというこの節があるのです。コリント人への第二の手紙第三章十七節は、主はその霊であると言い、イザヤ書第九章六節は、子は父と呼ばれると言います。これは三一の奥義です。わたしたちは父、子、霊を持ちます。しかも子は父と呼ばれ、また子は霊です。彼ら三はなおもひとりの神です。

  わたしたちはみなヨハネによる福音書第一章一節を知っています。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。言と神に区別があることは実にはっきりしています。しかしながら、ヨハネによる福音書第一章一節の次の文は、「言は神であった」と言っています。この文は問題を作り出します。初めに神の言があり、言は神と共にあり、言は神でした。彼らは一でしょうか、二でしょうか? これは奥義、三一の神の奥義です。

  エペソ人への手紙第四章六節は、御父がわたしたちの中におられると言い、コロサイ人への手紙第一章二七節は、キリスト、御子がわたしたちの中におられると言い、ヨハネによる福音書第十四章十七節は、聖霊がわたしたちの中におられると言います。父、子、聖霊はすべて、わたしたちの中におられます。かつてわたしは、これらの節をある人に提示して、それらについて彼がはっきりしているか、またそれらが言っていることを信じるかと尋ねました。わたしは彼に、「あなたはこれらの事実をすべて信じますか?父、子、霊はあなたの中におられることを信じますか?」と尋ねました。信じていると彼が言った時、わたしは尋ねました、「あなたの中に今、何人おられるのか、言ってください」。彼は「ひとりです」と言いました。そこでわたしは、「聖書は父、子、霊がすべてあなたの中におられることを告げていると、あなたは承認したではありませんか? あなたの中にただひとりおられると、どうして言うことができるのですか?」と言いました。彼は答えることができませんでした。聖書は父、子、霊、三者すべてがわたしたちの中におられると言っています。しかし、わたしたちの経験によれば、わたしたちはただひとりだけを内側に持つのであり、その方をその霊とも主とも呼ぶことができるのです。これはわたしたちの神の三一の奥義です。彼は唯一の神であり、しかも父、子、霊です。

(ウイットネス・リー, 旧約ライフスタディ 創世記(二), 241-244)

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三一の神の奥義

 In the New Testament there is another mystery, —the matter of the Triune God. God is one, yet He is triune. How can you define Him? When I was a young Christian, I tried to understand the trinity of God. But the more I tried, the more I could not understand. The Triune God is a mystery.

 To say that the Father, the Son, and the Spirit are three persons of one God is just a kind of interpretation. This should not be pressed too far; otherwise it will lead to three Gods. Many Christian teachers do hold the concept that the Father, Son, and Spirit are three Gods, but they dare not to express this in words openly. Some say that the Father, who has a person, is one God, and the Son, who also has a person, is another God, but the Spirit, who does not have a person, is merely an influence, not another God. All these concepts with their interpretations are complicated and complicating. We should not get involved with them.

 We cannot understand the mystery of the Triune God adequately. We can and should only believe the pure Word of God. Matthew 28:19 speaks of the name of the Father, and of the Son, and of the Holy Spirit. There is one name for the Father, Son, and Spirit, because God is triune. Then 2 Corinthians 13:14 says, “The grace of the Lord Jesus Christ, and the love of God, and the communion of the Holy Spirit be with you all.” Christ, God, and the Spirit are the one Triune God. We cannot tell how God could be triune, but according to the Bible we do know that He is triune. We have to forget about the theological terminology, but take care of the pure Word of the Bible. How could one God be the Father, the Son, and the Spirit? It is a mystery. This is why His name is called, “Wonderful.”

(ウイットネス・リー, Stream Magazine, Book 2, 1440-1441)
参考文献

  三一の教理には一と三の面の説明があるので、三一論争は今世紀に至るまで解決されていません。さらに聖書の真理は、人の限られた知性では十分に了解できるものではありません。仮に、二人の盲人がだれかの頭に触れるとします。一人は頭には七つの穴があることを知ります。もう一人は頭を後ろから触れるだけですから、彼は穴は一つもないと言います。彼らは互いに偽りであると議論し、責めます。だれが正しいのでしょうか?両方とも正しいのです。なぜなら頭には前と後ろの両方があるからです。両方とも完全な絵を持っていません。彼らは見ないで議論しているのです。

  神学者たちは三一の問題を同じように扱ってきました。ある人は神が一である面から論じます。また別の人は三つのパースンの面から論じます。この論争は今日なお続いています。一つの面を好んで極端な見方をする人たちは、様態論の異端に落ち込む可能性があります。三の面を取る極端な人は、いわゆる三神論者です。わたしたちは一か三かを強調しすぎないように注意が必要です。そうでないと誤りに陥ります。

(ウイットネス・リー, ライフメッセージ四, 169-170)

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4.わたしたちは理解することはできないが、享受することはできる


  父、子、霊という神格の三一のこの事柄は、わたしたちの思いを用いて理解することのできないものです。主は肉体の中におられた時、弟子たちにはっきりと言われましたが、その当時、主は彼らに対してあまり多くの事を語ることができませんでした。なぜなら、彼らはそれに耐えることができなかったからです。しかし、実際の霊が来る時、彼は彼らをすべての実際に導きます(ヨハネ十六・十–十三)。彼の意味したことは、その当時、彼はまだその霊に成っていなかったので、彼らの中に入ることができなかったということです。彼はただ彼らの外にいることができただけでした。彼はすでに彼らに多くの事を語っていました。もし彼がさらに多くの事を彼らに語れば、彼らの思いは理解することができなかったでしょう。しかし、彼が死人の中から復活して、その霊と成り、彼らの中に入れば、彼は彼らの中にいるようになって、彼らをすべての実際へともたらし、彼らに三一の神を享受させるのです。ですから、わたしたちは単に自分の思いを用いて、父、子、霊の奥義を理解することはできません。思いで分析した結論は必ず、御父がひとりであり、御子もひとりであり、その霊もひとりであり、こういうわけで、父、子、霊は三人の神であるというものです! これが、あなたの思いの理性による判断です。しかし、もしあなたが自分自身の経験を調べてみるなら、あなたの中に住んでおられる主は確かに一であるということを、あなたは宣言するでしょう。あなたの思いの理解によれば、三人の神がいます。しかし、あなたの経験によれば、ひとりしかおられません。ですから、あなたの思いの理解ではなく、あなたの経験を尊びなさい。もしあなたが思いの理解に従うのであれば、あなたは混乱するでしょう。しかし、あなたは経験によって、父、子、霊がひとりの神の三つのパースンであることがはっきりするようになります。

(ウイットネス・リー, 三一の神 すなわち、父、子、霊に関して,11-12)

  わたしたちは、わたしたちの三で一の神に関して、聖書が何と言っているか知っています。そして、それを信じます。わたしたちは、わたしたちに反対する人たちのために祈ります。神が彼らに純粋なみ言葉に従って真理を見ることを得させて下さるように。わたしはもう一度、繰り返して言います。この三で一の問題に関する議論と論争には際限がありません。三で一は奥義だからです。それを徹底的に、あるいは十分に説明することは、だれにも不可能です。三で一の神は、わたしたちの限られた知性によっては、一つの教義上の問題として完全に理解することはできません。三で一の神は、わたしたちの経験と享受のためです。三で一としての神は、彼のエコノミーのためです。言い換えれば、彼ご自身をわたしたちの内に分与し込んで、わたしたちの命、また、わたしたちのあらゆるものとなるためです。これが、わたしたちがこんなにも多くの時間を費やして、父はみ子のうちにあること、そしてわたしたちの霊に内住して、わたしたちの命となられ、またわたしたちの享受のために、わたしたちのあらゆるものとなっておられることを指摘する理由です。もし、経験の問題でない としたら、わたしたちはそれについてこれほど多く話す気にもならないでしょう。しかしながら、多くの誤解もあることゆえ、わたしたちの経験していることを人々にはっきりさせなければならなかったのです。

(ウイットネス・リー, 純粋な聖書の言葉による、三で一の神の啓示 ,36-38)

  J・オズワルド・サンダースは、彼の「霊的円熟」(Moody Press刊)の一四四ページで次のように言っています、「ウィリアム・バークレーのコメント:パウロは、復活した主と聖霊を同一視しているようです。わたしたちは覚えておかなければなりませんが、パウロは神学を著していたのではなく、経験を書き留めていたのです。クリスチャン生活の経験によれば、その霊の働きと復活した主の働きは一であり、同じです。わたしたちが受ける力、光、導きは、その霊から、また復活した主から、同じようにやって来ます。わたしたちがそれを経験してさえいれば、それをどのように表現するかはあまり重要ではありません」。 Thus, the Triune God is not for terminology or for teaching. The Triune God is for our experience and enjoyment.

(ウイットネス・リー, 三一の神 すなわち、父、子、霊に関して,25-26)

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神が三・一である理由

  コリント人への第二の手紙第十三章四節は言います、「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にありますように」。ここで三つのものが述べられています。すなわち、恵み、愛、交わりです。なぜ恵みが最初に述べられているのでしょうか?なぜなら、コリント人への第二の手紙の強調点は神の恵みにあるからです。コリント人への第二の手紙第十二章九節は言います、「わたしの恵みは、あなたに対して十分である」。第一章十二節は言います、「わたしたちはこの世にあって‥‥‥神の恵みの中で振る舞いました」。本書は主の恵みについて語っています。ですから、最後にやって来た時、主の恵みを最初に述べ、それから神の愛を述べ、最後に聖霊の交わりを述べるのです。これは、なぜ神が三・一であるかの理由を示しています。こうであってはじめて、彼はご自身をわたしたちの中に分与し、ご自身をわたしたちの中に造り込んでわたしたちに享受させ、わたしたちのすべてとなることができるのです。神の愛、すなわち、御父の愛は、源です。キリストの恵み、すなわち、御子の恵みは、御父の愛の流れ出です。聖霊の交わりは、御子の恵みが御父の愛と共に、わたしたちの中に流れ込んで、わたしたちの享受となることです。これはわたしたちの経験によって証明することができます。わたしたちの中の聖霊の交わりは、御子の恵みがわたしたちの中に伝達されることです。わたしたちの中の御子の恵みは、御父の愛の実際的な味わいと享受にほかなりません。御父の愛は源です。御子の恵みは現れです。聖霊の交わりは伝達であり、御子の恵みを御父の愛と共にわたしたちの中に伝達します。その結果は、父、子、霊という三つのパースンすべてがわたしたちの享受になることです。あなたの内側には聖霊の交わりがあり、あなたがこの交わりの中に生きれば生きるほど、さらにあなたはキリストの恵みを持つようになります。そして、あなたがキリストの恵みを持てば持つほど、さらにあなたは神の愛を享受するようになります。聖霊の交わりはキリストの恵みをもたらします。そしてキリストの恵みの中には、神の愛があります。ですから、御父の愛、御子の恵み、聖霊の交わりは、三つの異なるものではなく、一つのものの三つの段階であり、わたしたちが所有し、享受するためです。同様に、父、子、霊は三人の神ではなく、ひとりの神の三つの段階であり、わたしたちが所有し、享受するためです。例えば、氷は水になり、水は水蒸気になります。すなわち、一つの実質が三つの形を取ります。水蒸気の段階に達すると、わたしたちか吸い込むことかできるようになります。このように、御父が持っているすべては御子の中にあり、御子が持っているすべては聖霊によって受け取られ、聖霊はご自身をわたしたちの中にもたらし、わたしたちに享受させます(ヨハネ十六・十四–十五)。

(ウイットネス・リー, 三一の神 すなわち、父、子、霊に関して,36-38)

 There are many illustrations which can be used to help explain and describe God in His Trinity. Not one of them, however, is adequate in itself to express this reality, since all of them must be drawn from the physical creation. Therefore, care should be taken when applying any illustration to explain the mystery of the Triune God.

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本ページ及び本ページにリンクされている記事はChristian Web Sites掲載のWitness Lee: Quotes on the Triune Godに基づいて構成されています。本ページに掲載されている内容の無断転載を禁じます。掲載されている書物および回復訳聖書の抜粋はliving Stream Ministryに著作権があり、JGW日本福音書房から許可を受けて掲載しています。


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