第六章 三一の神と彼の信者たちは相互内在する

三一の神・目次>第六章  三一の神と彼の信者たちは相互内在する

  1. 三一の神はわたしたちの中にいる
  2. わたしたちは三一の神の中にいる
  3. この相互内在の中に生きる

1.三一の神はわたしたちの中にいる

エペソ 4:6 すべてのものの神また父は一つ、この方は すべての上に、すべてを貫き、すべての中におられるのです。

4:6ノート3  三一が、ここでさえ暗示されています。「すべての上に」はおもに御父のことを、「すべてを貫き」は御子のことを、「すべての中に」はその霊のことを言います。三一の神は、その霊としてわたしたちに臨むことによって、最終的にわたしたちすべての中へと入られます。 (ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)
 
2コリント13:5 あなたがたがその信仰の中にあるかどうか、自分自身を試してみなさい.自分を吟味しなさい。それとも、 イエス・キリストがあなたがたの中におられることを、自ら認識しないのですか ? あなたがたが不適格であれば別ですが。

13:5ノート3  イエス・キリストが内におられることを、信者が理解している限り、彼はキリストの真の肢体として資格づけられ、認められます。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

ガラテヤ 2:20 わたしはキリストと共に十字架につけられました.生きているのはもはやわたしではありません.キリストがわたしの中に生きておられるのです.そしてわたしは今、肉体の中で生きているその命を、わたしを愛し、わたしのためにご自身を捨ててくださった神の御子の信仰の中で生きるのです。

2:20ノート3  わたしたちはキリストの中で、彼の死を通して死にました。しかし今や、彼は彼の復活を通して、わたしたちの中に生きておられます。彼がわたしたちの中に生きておられるのは、完全に彼が命を与える霊であることによります(1コリント15:45後半)。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

コロサイ1:27  神は彼らに、異邦人の間にあるこの奥義の栄光の豊富がどんなものであるかを、知らせたいと願われました.それはあなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みです.

ヨハネ福 14:17 それは 実際の霊である.世はその方を受けることができない.それは、世が彼を見ないし、知りもしないからである.しかし、あなたがたは彼を知っている.彼はあなたがたと共に住んでおり、あなたがたの中におられるようになるからである。

14:17ノート3  その霊の内住の約束が啓示されたのは、これが最初です。この約束は書簡の中で成就され、完全に発展しています。1コリント第6章19節、ローマ第8章9節, 11節を参照。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

ローマ 8:9 しかし、確かに神の霊があなたがたの中に住んでいるなら、あなたがたは肉の中にいるのではなく、霊の中にいるのです。もしだれでもキリストの霊を持たないなら、その人はキリストのものではありません。

ローマ 8:10  しかし、キリストがあなたがたの中におられるなら、体は罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに命です。

ローマ 8:11  そして、イエスを死人の中から復活させた方の霊が、あなたがたの中に住んでいるなら、キリスト・イエスを死人の中から復活させた方は、あなたがたの中に住んでいる彼の霊を通して、あなたがたの死ぬべき体にも、命を与えてくださいます。

1コリント人 3:16 あなたがたは神の宮であって、神の霊があなたがたの中に宿っておられることを、知らないのですか?

1コリント人 6:19  それとも、あなたがたの体が、内にある聖霊の宮であることを知らないのですか?この聖霊は、あなたがたが神から受けたものであって、あなたがたは、自分自身のものではないのです。 

6:19 ノート1  聖霊はわたしたちの霊の中におられ(ローマ8:16)、わたしたちの霊は体の中です。ですから、わたしたちの体は聖霊の宮、聖霊の住まいとなります。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

父、子、霊はすべてわたしたちの中におられる

 一 御父はわたしたちの中におられます。エペソ人への手紙第四章六節は言います、「すべてのものの神また父は……すべての中におられるのです」。

 二 御子はわたしたちの中におられます。コロサイ人への手紙第一章二七節は言います、「あなたがたの内にいますキリスト」。同様に、ヨハネによる福音書第十四章二〇節で主は、「わたしがあなたがたの中にいる」と言います。

 三 その霊もやはりわたしたちの中におられます。ヨハネによる福音書第十四章十七節は言います、「実際の霊……は……あなたがたの中におられるようになるからである」。

 ですから、聖書は明確に、御父がわたしたちの中におられること、御子がわたしたちの中におられること、その霊もわたしたちの中におられることを述べています。わたしたちの経験によれば、わたしたちの中におられるのは三人ではなく、ただひとりです。御父は御子の中におられて、わたしたちの中におられます。わたしたちの中におられる御子は、その霊です。わたしたちの中におられるその霊は、わたしたちの中におられる御子です。そして御父は御子の中におられて、わたしたちの中におられます。ですから、わたしたちはその霊を持ってさえいれば、御子と御父をも持っているのです。ヨハネの第一の手紙第二章二三節は言います、「すべて御子を否定する者は、御父をも持っていません。御子を告白する者は、御父をも持っています」。ローマ人への手紙第八章九節から十節はさらに啓示していますが、わたしたちの中におられるキリストの霊は、わたしたちの中におられるキリストご自身です。ですから、人はその霊を持つ時、御子をも持つのです。そして人は御子を持つ時、御父をも持つのです。御父は御子の中におられ、御子はその霊です。その霊は、わたしたちの中に入ってきて、わたしたちに三一の神を持たせ、享受させます。言葉の上では三つありますが、経験の上ではただ一つです。それは本当に奥義です!

(ウイットネス・リー, 三一の神、すなわち、父、子、霊に関して, 38-39)

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御子と共に、その霊によって、わたしたちの中に住む

 御父の分与の完成は、御父が御子と共に、その霊によって、わたしたちの中に住まわれることです(ヨハネ十四・二三、Iヨハネ三・二四、四・十三)。御父はご自身だけでは決してわたしたちの中に住むことはできません。御父は、御子と共に、その霊によって、わたしたちの中に住まわれるのです。ひとりが来られると、わたしたちは三者すべてを持つのです。これは、その霊によって、御子の中にある御父です。わたしたちはみなこれを見るためにビジョンを必要とします!神のエコノミーはご自身を、その霊によって御子と共にある御父として、生けるパースンとして啓示することです。この神聖なパースンは、あなたがたへの一つの賜物となられたのです。この神聖な賜物は決して尽きることがありません。彼はあなたの中におられ、彼はあなたの中に住んでおられ、あなたの命、あなたの命の供給、あなたのすべてとなるためにあなたの中に住んでおられます。

 あなたはどのような宗教的な教えも必要ではありません。命にはどんな教えも必要ではありません。桃の木にバナナを産出しないよう教育する必要はありません。桃の木が成長すれば、バナナではなく桃を産出するでしょう。ヨハネによる福音書はわたしたちに、どのように振る舞うかを教えているのではありません。この福音書では、わたしたちはまず彼を信じるように、それから彼を愛するようにと命じています。主イエスは、「だれでもわたしを愛する者は、わたしの言を守る。そしてわたしの父は彼を愛され、わたしたちは彼の所へ行って、彼と共に住まいを造る」(ヨバネ十四・二三)と言われました。これは、わたしたちの命となるためわたしたちの中に住むことです。

 あなたがたがどんなに多くの命のメッセージを学んだとしても、またどんなに多くの特別集会に参加したとしても、あなたがたには無意識のうちに天然的な宗教観念がいまだに残っているのではないかと、わたしは恐れます。あなたがたは依然として自分自身を改善しようとしたり、もっと良い事を行なおうとしたり、自分自身を調整したり、自分自身を矯正したいと願ったりします。これが、わたしたちが自分の背景から受け継いだパン種です。わたしの負担は、あなたがたをこれらすべてのパン種から解放することです。どうか主があなたの内なる人を照らし、あなたに見させてくださいますように。主はあなだを矯正したくはないのです。主はあなたを再生させたいのです。主はあなだを造り変えたいのです。主はあなたの中で、あなたの命として、あなたの命の供給として、あなたのすべてとして生きたいのです。

 まず、御父は御子と共に来られます。それから御父はその霊によって、御子と共に、あなたの中に住まわれます。御父があなたの中に住まわれるとき、三一の神、すなわち父、子、霊があなたの中で、あなたの命、あなたの命の供給、あなたのすべてとして住まわれます。あなたは自分自身を調整する必要はありません。あなたは自分自身を改善する必要はありません。あなたは、御父が御子と共に、その霊によって、あなたの中に住んでくださることを必要とします。バレルヤ!わたしたちは御父を持っています。私たちは御子とその霊を持っています。わたしたちは、わたしたちの中に住んでおられる三一の神を持っています!どうかわたしたちみながそのようなビジョンを見ますように。これが御父の分与です。

 このメッセージで扱われたすべての要点は、源、遣わすこと、御子と共に来られること、御子の中で生き働くこと、御父が持っておられるすべてを御子に与えること、御子をわたしたちに与えること、御子と共にその霊によってわたしたちの中に住むことですが、これらは御父ご自身をわたしたちの存在の中に分与するためです。ハレルヤ!わたしたちはそのような分与をわたしたちの内側に持っています。御父は、御子と共に、その霊によってわたしたちの中に住んでおられます。

(ウイットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上), 178-181)

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その霊として、御父と共に、わたしたちの中に住む

 最終的に、御子はその霊として、御父と共に、わたしたちの中に住まわれます。ヨハネによる福音書第十四章二三節で主イエスは、御父と主とは、主を愛する者のところにきて、その人と共に住まいを造る、と言われました。これは、御父と御子が共に来られて、信者たちの中に住むことを意味します。前の十六節から二〇節によってわたしたちは、御子が御父に、弟子たちに別の慰め主、すなわち実際の霊を賜るように願うことを見ます。この実際の霊が来られるとき、彼は信者たちと共におられるだけではなく、信者たちの中におられるのです。最終的に主は十八節で、来たるべき方、実際の霊は実は彼ご自身にほかならないことを示されました。最後に彼は二〇節で、その日、すなわち復活の日には、彼は御父の中におり、また彼らは彼の中におり、そして彼は彼らの中にいることを知るであろう、と言われました。実際の霊が彼らの中にいるだけでなく、彼さえも彼らの中にいるのです。これは、彼とその霊が実は一であることを示します。それから第十七章の彼の御父への祈りの中で、主イエスは二度、「わたしは彼らの中にいる」と言われました(二三、二六節)。このすべての事は何でしょうか? このすべては、父なる神が子なる神を通して、子なる神の中で、霊なる神によって、ご自身をわたしたちの中に分与するということです。ですから、神たる方全体、すなわち父、子、霊は、今やわたしたちと一になるためにわたしたちの中に住んでおられるのです。今や、神聖な命の中で、また神聖な性質の中で、彼はわたしたちを彼の表現としつつあるのです。真のクリスチャンとしてわたしたちは、三一の神を生きる生活を生きるべきです。これは、宗教と関係のある生活や、倫理を表現する生活ではありません。これは、三一の神を純粋に生き、そして彼を表現する生活です。これは、多くの神の子たちとキリストの多くの兄弟たちを生み出すための、三一の神のわたしたちの中への分与です。それは御父が一つの家を持つため、キリストが一つのからだを持つため、その霊が三一の神を表現するための有機体を持つためです。それは宗教、人の倫理、人の天然の観念や哲学とは何の関係もありません。それは全く彼の表現のためにわたしたちの中に三一の神を分与することです。

(ウイットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上),201-202)

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信者たちのなかに、御子また御父と共に住む

 その霊は信者たちの中に、御子また御父と共に住まわれます(ヨハネ十四・十七、二三、ローマ八・九ー十一)。ローマ人への手紙第八章九節から十一節では、三一の神聖な称号が置き代えられるように使われています。すなわち、神の霊、キリストの霊、キリストです。これは、キリストがキリストの霊であり、キリストの霊が神の霊であることを示します。これら三つの神聖な称号は置き代えられるように使われています。それは、わたしたちの存在とご自身とを全くミングリングさせる、わたしたちの三部分への三一の分与を記述するためです。三一はわたしたちの三部分とミングリングされます。これは本当にすばらしいです! これは、究極的完成における三一の神、すなわち命を与える霊である方が、住まわれることです。

 なぜわたしたちはこの事について、こんなに多くの時間を費やさなければならないのでしょうか? それは、わたしたちの観念の中に今なおパン種の入った真理がとどまっているからです。このふくらませる成分は、クリスチャンの間に宇宙的に広がっています。クリスチャンは、三一の三は分かれていて分離しているという潜在的な理解を持っています。彼らは今日、聖霊だけを彼らの内に持つのであって、御父を持っていないし、御子も持っていないと思っています。こういうわけで、わたしたちは三一に関する聖なる御言葉の学びにおいて、わたしたちに明確な展望を与える点を取り上げてきたのです。その明確な展望とは、第一に、御子が御父の名の中で来られることと、その霊が御子の名の中で遣わされることであり、第二に、御子が御父と共に来られることと、その霊が御父また御子と共に来られることです。これらの二つの点は、三一の神が唯一無二であることを証明します。御父、御子、その霊は、区別はありますが、一であって、分離されず、分けることができず、分けられません。あなたが一を持つとき、三すべてを持つのです。

 しかし、決して御父が最初に来るのではありません。最初に来られるのは常にその霊です。あなたがその霊を持つとき、御子はあなたと共におられます。あなたが御子を持つとき、あなたはまた御父をも持ちます。ヨハネの第一の手紙第二章二三節は言います、「御子を告白する者は、御父をも持っています」。ですから、あなたが御子を持つとき、あなたは御子と御父の両方を持ちます。御子はその霊として来られますから(IIコリント三・十七)、彼は霊なるキリストです。

 これは、新約が永遠の命と呼ぶものです(Iヨハネ五・二〇)。永遠の命は、御父、御子、その霊であり、それは三一の神の究極的完成である、すべてを含む命を与える霊の中でわたしたちに来られます。この三一の神は永遠の命の実際です。わたしたちクリスチャンが命の中で成長すべきであると言う時、わたしたちは三一の神の要素と本質をもって成長すべきであることを意味します。わたしたちが命を言う時、わたしたちは三一の神を意味しています。三一の神から離れた何かを意味するのではありません。わたしたちのクリスチャン経験における命は、御父、御子、その霊にほかなりません。命は三一の神です。この命はわたしたちの内側にあります。何とすばらしいことでしょう!何という祝福でしょう!三一の神がわたしたちの命としてわたしたちの内側に折られます。

 キリストの死と復活の前、その霊はまだありませんでした(ヨハネ七・三九)。なぜなら、キリストは経過しなければならない過程を完成していなかったからです。彼は受肉されました。しかし、彼はまだ死を経過しておらず、復活へと入っていませんでした。ある日、彼は死の中に入られ、死を経過され、復活の中に入られ、それから命を与える霊となられました(Iコリント十五・四五後半)。ヨハネによる福音書第七章三九節は、その霊はまだなかったと言っています。それは、神の霊が命を与える霊となる過程がまだ完成されていなかったことを意味します。なぜなら、イエスはまだ栄光を受けておられなかったからです。すなわち、まだ死を経過しておらず、復活へと入っておられなかったからです。しかし、彼が死を経過し、復活へと入られた後、彼は栄光を受けられました。そして、命を与える霊が生み出される過程が完成されたのです。

 彼の復活の後、彼は三の称号を弟子たちに明らかに示されました。マタイによる福音書第二八章十九節において、彼の復活の後、彼の復活の中で、彼は弟子たちに戻って来られました。そして諸国民を弟子とならせ、信じる者たちを父と子と聖霊の名の中へとバプテスマするように命じられました。彼がすべての必要な手順を経られるまでは、御父、御子、その霊としての神聖な三一は聖書の中に明らかには啓示されていませんでした。彼の復活の後、彼の復活の中で、完全に手順を経られた三一の中へと人はバプテスマされることができます。それは人が、分与する三一の神との有機的な結合を持つためです。今やわたしたち、信じてバプテスマされた者たちは、御父、御子、その霊と一です。わたしたちは三一の神にあずかり、彼ご自身のわたしたちへの分与を享受します。

(ウイットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上),217-220)

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2.わたしたちは三一の神の中にいる

マタイ28:19 だから、行って、すべての国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らを.バプテスマして、

28:19ノート3 バプテスマは、悔い改めた人々を彼らの古い状態から新しい状態へもたらすことであり、彼らの古い命を終わらせて、キリストの新しい命を彼らに発芽させることによって、彼らが王国の民となるためです。バプテスマのヨハネの推薦の務めは、水だけによる準備のバプテスマで始まりました。今や、天の王が彼の務めを地上で成し遂げた後、死と復活の手順を経過し、命を与える霊と成って、弟子となった人たちを、三一の神の中へとバプテスマするよう弟子たちに命じられました。このバプテスマには二つの面、水による目に見える面と、聖霊による目に見えない面があります(使徒2:38,41.10:44–48)。見える面は見えない面の表現、証しであり、見えない面は見える面の実際です。その霊による見えないバプテスマがなければ、水による見えるバプテスマはむなしいです。また水による見える面がなければ、その霊による見えない面は抽象的であり、実際的ではありません。両方とも必要です。主は弟子たちにこのバプテスマを命じた後、間もなく、彼らと全召会を、聖霊の中にバプテスマされました(Iコリント12:13)。ユダヤ人の部分はペンテコステの日に(使徒1:5.2:4)、異邦人の部分はコルネリオの家でです(使徒11:15–17)。それから、これに基づいて、弟子たちは新しく悔い改めた者たちをバプテスマしました(使徒2:38)。それは水の中にだけでなく、キリストの死の中へと(ローマ6:3–4)、キリストご自身の中へと(ガラテヤ3:27)、三一の神の中へと(19節)、キリストのからだの中へと(Iコリント12:13)です。キリストの死と埋葬を象徴する水は、バプテスマされる者の古い歴史を終わらせる墓と考えられます。キリストの死がキリストの中に含まれており、キリストはまさに三一の神の化身であり(コロサイ2:9)、三一の神は結局キリストのからだと一つであるのですから、新しい信者たちをキリストの死の中へと、キリストご自身の中へと、三一の神の中へと、キリストのからだの中へとバプテスマすることは、まさに一つの事を行なうことです。すなわち、消極面では彼らの古い命を終わらせることであり、積極面ではキリストのからだのために、彼らを新しい命、三一の神の永遠の命をもって発芽させることです。ですから、ここで主によって定められたバプテスマは、人々を彼らの命から、天の王国のために、からだの命の中へとバプテスマすることです。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

ヨハネ福14:3 わたしが行って、あなたがたのために場所を用意したなら、再び来て、あなたがたをわたし自身に迎える.わたしがいる所に、あなたがたもいるようになるためである。

14:10 わたしが父の中におり、父がわたしの中におられることを、あなたは信じないのか? 

14:20 その日には、わたしがわたしの父の中におり、あなたがたがわたしの中におり、わたしがあなたがたの中にいることを、あなたがたは知るであろう。

14:3ノート4 主は御父の中におられます(10–11節)。彼は、彼の弟子たちも御父の中にいることを願われました。それは、第17章21節に啓示されているとおりです。彼は死と復活を通して、彼の弟子たちをご自身の中にもたらされました。主が御父の中におられるのですから、彼らは主の中にいることによって、御父の中にもいます。ですから、彼のおられる所に、弟子たちもいるのです。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

ヨハネ福17:21 それは、彼らがすべて一となるためです.父よ、あなたがわたしの中におられ、わたしがあなたの中にいるように、彼らもわたしたちの中にいるためであり、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためです。

ローマ8:1 そこで今や、キリスト・イエスの中にある者には、罪定めがありません。

1 コリント1:30 しかし、あなたがたがキリスト・イエスの中にあるのは、神によるのです.このキリスト・イエスは、わたしたちに至る神からの知恵、すなわち、義と聖別と贖いとなられました.

1:30ノート1 わたしたち信者が新創造として、キリストの中にあり、キリストの中で持つものは、すべて神からであって、わたしたち自身からではありません。わたしたちをアダムからキリストへと移して、キリストの中に置かれたのは神です。キリストをわたしたちに知恵とされたのは神です。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

1 コリント12:13 なぜなら、わたしたちはユダヤ人もギリシャ人も、奴隷も自由人も、みな一つ霊の中で、一つからだの中へとバプテスマされ、みな一つ霊を飲むようにされたからです。

12:13ノート1 その霊は、わたしたちの霊のバプテスマの領域と要素です。そのような霊の中で、わたしたちはみな一つの有機的実体、すなわちキリストのからだの中へとバプテスマされました。ですから、わたしたちはみな、人種、国籍、社会的地位に関係なく、この一つからだであるべきです。キリストはこのからだの命、構成要素であり、その霊はキリストの実際です。わたしたちはみなこの一つ霊の中で、この一つの生けるからだへとバプテスマされ、キリストを表現します。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

12:13ノート5 その霊の中にバプテスマされるとは、その霊の中に入り込み、彼の中で失われることです。その霊を飲むとは、その霊を受け入れて、わたしたちが彼で浸透されることです。これら二つの手順によって、わたしたちとその霊は混ざり合わされます。その霊の中にバプテスマされることは、混ざり合いの開始であって、一度限りです。その霊を飲むことは、混ざり合いの継続と成就であって、絶え間なく、永遠です。これには、絶えず主を呼び求め、生ける水の泉としての彼から、喜びをもって水をくむことが必要です(イザヤ12:3–4.ヨハネ4:10、14)。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

2 コリント5:17 ですから、だれでもキリストの中にあるなら、その人は新創造です。古いものは過ぎ去りました.見よ、それらは新しくなりました。

5:17ノート2 キリストの中にあるとは、命と性質において、彼と一であることです。これは神からであり、キリストにあるわたしたちの信仰を通してです(Iコリント1:30.ガラテヤ3:26–28)。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

ガラテヤ3:27 なぜなら、キリストの中へとバプテスマされた者はみな、キリストを着たからです。

3:27ノート1 信じるとは、キリストの中へと信じることであり(ヨハネ3:16)、バプテスマされるとは、キリストの中へとバプテスマされることです。信仰とバプテスマによって、わたしたちはキリストの中へと入り、こうしてキリストを着て、キリストに結合されて一となりました。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

1ヨハネ5:20 神の御子が来られて、真実な方を知る理解力を与えてくださったことを、わたしたちは知っています.そして、わたしたちは真実な方の中に、すなわち御子イエス・キリストの中にいるのです。これが真の神、また永遠の命です。

5:20ノート6 わたしたちは、真の神を知っているだけでなく、彼の中にいます。わたしたちは彼を認識しているだけでなく、彼との有機的結合の中にあります。わたしたちは、有機的に彼と一です。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

5:20ノート7 真の神の中にいるとは、御子イエス・キリストの中にいることです。神の御子としてのイエス・キリストは、神の化身ですから(コロサイ2:9)、彼の中にいるとは、真の神の中にいることです。これは、神の御子イエス・キリストが、真の神であることを示します。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

 キリストの務めは、新約における主要な務めであり、神をわたしたちの中に分与します。それは明白に二つの部分から成っています。第一の部分は、彼がわたしたちの所にやって来ることです。第二の部分は、彼が神の所へと戻っていくことです。これは両方の通行、来ることと行くことの往来です。彼は来られて、神をわたしたちにもたらしました。また彼は神の所へと戻って行って、わたしたちを神の中にもたらしました。この来ることと行くことによって、神はご自身をわたしたちの存在の中に分与しました。主イエスの来ることは、彼の受肉から始まり、彼の十字架刑をもって終わりました。彼の受肉から死までは、主の務めの第一の部分でした。彼の務めの第二の部分は、彼の復活から始まり、終わりがありません。ですから、それは永遠にわたって続きます。

(ウイットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上),83)

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場所と道(方法)

 実際に主がおられる所とは、一つの場所ではありません。それはパースンです。ヨハネによる福音書第十四章四節で、主は言われました‥「わたしがどこへ行こうとしているか、あなたがたはその道を知っている」。トマスは主がどこへ行かれるのか、どのようにして、彼らはその道を知ることができるでしょうか、と答えました(ヨハネ十四・五)。すると主は「わたしは道であり」と言われました(ヨハネ十四・六)。これは、その道がパースン、すなわちキリストご自身であることを示しています。主はまたトマスに言われました、「わたしを通してでなければ、だれも父に来ることはない」。これは、その場所が御父であることを啓示しています。ですから道とはパースンであり、場所もパースンです。これを見たクリスチャンは多くいません。その道は御子であり、その目標、道が導く所は御父です。

 御子は道ですが、彼は十字架と復活を通してのみ道となることができます。十字架につけられていないキリストは、道とはなり得ません。全体的に見て、新約聖書はキリストが十字架上で死に、死人の中から復活して、わたしたちが御父の中へと入る道となられたことを啓示しています。わたしたちの道であるキリストによって、わたしたちは御父の中にいることができます。それはちょうど彼が御父の中におられるようにです。

(ウイットネス・リー, 真理メッセージ, 105-106)

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神の意図

 多くのクリスチャンは、ヨハネによる福音書第十四章三節で語られている場所は天のマンションであると思っています。しかし、もしこの節を文脈の中で考えるなら、わたしたちはこの場所が天のマンションではなく、御父であることがわかります。わたしたちは御父の中ではなく、アダムの中で生まれました。しかし、新約の基本的な概念では、神の意図はキリストの死と復活を通してわたしたちをご自身の中へと入れることです。キリストの死と復活が神の臨在の中に入るための新しい生きた道を開きました。このことは、ヘブル人への手紙第十章に啓示されています。神の臨在の中に入ることは、神の中に入ることです。なぜなら至聖所は実は神ご自身であるからです。

 主イエスが十字架につけられる前の晩、弟子たちに語っておられた時、彼らは三年半、主に従ってきましたが、まだ御父の中へともたらされてはいませんでした。その時、主ご自身だけが御父の中におられました。しかし、主は彼らのために場所を用意しに行く、そしてその所への道を切り開いて、彼らが主のおられる御父の中にいることができるようにする、と彼らに言われました。神の救いの最高の定義は、救われるとは神によってご自身の中へともたらされることです。わたしたちが神に悔い改めて主イエスを信じた時、その時、そのような認識はないかもしれませんが、わたしたちは父なる神の中にもたらされたのです。ヨハネによる福音書第十四章の文脈によれば、これは神の最高の意図です。十字架につけられ復活されたキリストを通して、神はわたしたちをご自身の中へともたらされました。

(ウイットネス・リー, 真理メッセージ, 109-110)

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「わたしがいる所に、あなたがたもいるようになる」

 三節で主は、彼がわたしたちをご自身に迎えるのは、「わたしがいる所に、あなたがたもいるようになるためである」と言われました。主はどこにおられるのでしょうか?天にですか?違います、彼は御父の中におられます。主は彼の弟子たちも、御父の中におらせたいのです(十七、二一節)。主は御父の中にいるからには、わたしたちをも御父の中へもたらされるでしょう。主の中にいることによって、わたしたち弟子は、御父の中にもいます。主は御父の中におられました。主は彼の死と復活を通して、わたしたちをご自身の中へもたらされました。主の中にいることによって、わたしたちはまた御父の中にいます。なぜなら、主は御父の中におられるからです。主のおられる所に、わたしたちもいます。これは、主の死と復活を通して可能になりました。主イエスは彼の死と復活の前、御父の中におられましたが、弟子たちはいませんでした。彼の死と復活の後、すべての弟子は御父の中へ入りました。それは、主が御父の中にかつておられ、今もおられるようにです。その時、主は「わたしがいる所に、あなたがたもいるようになる」と言うことができました。

「道」は御子ご自身である

 わたしたちが神の中へ入る道は、主ご自身です。その道が生けるパースンであるからには、主がわたしたちをもたらされる場所も、生けるパースン、父なる神ご自身でなければなりません。主ご自身は、人を父なる神、生ける場所へもたらされる生ける道です。わたしたちと同じように、弟子たちは、その場所もその道も場所であって、パースンではないと思いました。それにもかかわらず、主は彼らに、「わたしは道で」あると言われました。
 
 六節で主は、「わたしを通してでなければ、だれも天に来ることはない」とは言われませんでした。違います、彼は、「わたしを通してでなければ、だれも父に来ることはない」と言われたのです。主の意図は、わたしたちを天へもたらすことではなく、神の中へ、御父の中へもたらすことです。主は信者たちを天へではなく、御父の中へもたらす道です。

「父に」

 御父、生けるパースンが目的地であり、御子、生けるパースンが道です。道も目的地も場所ではありません。道は御子であり、目的地は御父です。御子を通して、わたしたちは御父の中へ入ります。道も目的地も、生けるパースンです。御子の死と復活を通して、わたしたちはみな御父の中へ入りました。今や御子は御父の中におられ、わたしたちも御父の中にいます。なぜなら、わたしたちは御子の中にいるからです。

(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ ヨハネによる福音書(ニ), 66-69)

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キリストの中にある

 コリント人への第一の手紙第一章三〇節は言います、「しかし、あなたがたがキリスト・イエスの中にあるのは、神によるのです。このキリスト・イエスは、わたしたちに至る神からの知恵、すなわち、義と聖別と贖いとなられました」。神はわたしたちをキリストの中へと入れられました。今やわたしたちは彼の中にいます。以前、わたしたちはアダムの中にいましたが、アダムからキリストへと移し変えられました。これは外側の移動ではなく、命の内側の移動でした。命の中で、わたしたちは一つの領域から別の領域へと、アダムからキリストへと移し換えられました。今やわたしたちはみな宣言することができます、「ハレルヤ、わたしはキリストの中にいます! わたしがキリストの中にいるとは何と幸いなことでしょう!」。

 キリストの中にあるとは重大な事柄です。単なる教理どころか、これは驚くべき事実です。わたしたちはキリストの中にいます。そしてキリストは神の力、また神の知恵です。彼は三一の神の具体化です。わたしたちがそのような方の中にいるとは、何とすばらしいことでしょう!

(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ コリント人への第一の手紙(一), 188-189)

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3.この相互内在の中に生きる

ヨハネ福15:4 わたしの中に住んでいなさい.そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む。枝がぶどうの木の中に住んでいなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしの中に住んでいなければ、実を結ぶことはできない。

1 ヨハネ3:24 そして、彼の戒めを守る者は彼の中に住み、また彼はその人の中に住まわれます。そしてこのことにおいて、わたしたちは、彼がわたしたちの中に住んでおられることを、彼がわたしたちに与えられたその霊によって知るのです。

3:24ノート2 わたしたちは主の中に住みます。すると彼がわたしたちの中に住まわれます。わたしたちが彼の中に住むことは、彼がわたしたちの中に住まわれることの条件です(ヨハネ15:4)。わたしたちは、わたしたちが彼の中に住むことによって、彼がわたしたちの中に住まわれることを享受します。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

1 ヨハネ4:13 彼はわたしたちに、彼の霊を与えてくださいました.このことから、わたしたちが彼の中に住み、そして彼がわたしたちの中に住んでおられることを知るのです。

1 ヨハネ4:16 そしてわたしたちは、神がわたしたちの中で持っておられる愛を知っており、また信じています。神は愛です.愛の中に住んでいる者は神の中に住んでおり、神も彼の中に住んでおられます。

エペソ4:30 また、神の聖霊を悲しませてはいけません.この方の中で、あなたがたは贖いの日へと証印を押されたのです。

ぶどうの木に住み、ぶどうの木を枝に住まわせることによって

 実を結ぶことは、枝がぶどうの木に住み、ぶどうの木を枝に住まわせることによって起こります。ヨハネによる福音書第十五章では、住むことが重要な事柄です。この章にあるすべてのことは、住むことにかかっています。真の住むことは、あなたが枝であるという明確などジョン、それをはっきりと見ることにかかっています。ひとたび自分が枝であることを見るなら、あなたがぶどうの木から離れ去ることは難しいでしょう。あなたはぶどうの木にとどまっていたいと願うでしょう。このとどまっているのが住むことです。住もうと努めないでください。なぜなら、住もうとすればするほど、ますます遠ざかるからです。わたしたちは、「主よ、わたしが枝の一つであることを、はっきりと見せてください」と祈る必要があります。ある日、主があなたに見せてくだきると信じます。あなたは自分が枝の一つであることを見て、「主を賛美します、わたしは枝の一つです」と言うでしょう。こうして、あなたは彼の中に住むでしょう。

 あなたが彼の中に住む限り、彼はあなたの中に住まわれます。彼がわたしたちの中に住まわれることは、わたしたちが彼の中に住むことにかかっています。わたしたちの住むことが、彼の住まわれることの条件です。しかし、彼がわたしたちの中に住まわれることは、わたしたちが彼の中に住むことの条件ではありません。彼には何の条件もありませんが、わたしたちの側にはあります。なぜなら、わたしたちはあまりにも動揺するので、条件が必要であるからです。もしわたしたちが彼の中に住まないなら、彼がわたしたちの中に住まわれる道はありません。彼は変わらないのですが、わたしたちには多くの変化があります。わたしたちは今日、彼の中に住んでいて、明日、彼から逃げ去るかもしれません。ですから、彼がわたしたちの中に住まわれることは、わたしが彼の中に住むことにかかっています。わたしたちが彼の中に住むことは、彼がわたしたちの中に住まわれることの条件です。ですから主は言われます、「わたしの中に住んでいなさい。そうすれば、わたしもあなたがたの中に住む」。わたしたちが彼の中に住むなら、彼は碓かにわたしたちの中に住まれます。もし彼の中に住まないなら、彼がわたしたちの中に住まれるという条件を満たし損ないます。彼が住まれることは、わたしたちが住むことにかかっています。この相互の住み合いが、実を生み出すでしょう。

(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ ヨハネによる福音書(ニ), 117-118)

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わたしたちが彼の中に住み、そして彼がわたしたちの中に住んでおられることを知る

 第四章十三節でヨハネは言います、「彼はわたしたちに彼の霊から与えておられる、このことにおいてわたしたらは、わたしたちが彼の中に住み、そして彼がわたしたちの中に 〔住んでおられる〕 ことを知るのである」。「このことにおいて」という語は、神が彼の霊からわたしたちに与えてくださったというその事実において、わたしたちが彼の中に住み、また彼がわたしたちの中に住んでおられるのを知ることを意味します。神がわたしたちの中に定住するよう与えてくださったその霊は (ヤコブ四・五。ローマ八・九、十一)、わたしたちが神の中に定住し、また彼がわたしたちの中に定住しておられることのわたしたちの霊の中の証しです(ローマ八・十六)。 その住んでいる霊、すなわち内住する霊は、わたしたちと神との相互の住み合い、相互内住の成分また領域です。わたしたちと神とが一であり、互いに住み合い、相互に内住し合っていることをわたしたちは彼によって確信させられます。これはわたtたちの生活、彼の愛を習慣的に表現する生活によって証明されます。

 十三節でヨハネはわたしたちが神の中に住んでいることを知り得ることを示します。神の中に住むことは神の中に定住することで、わたしたちが彼との交わりの中にとどまることです、それは彼がわたしたちの中に住んでおられることを、わたしたちが経験し享受するためです。これは彼の義と彼の愛を実行する生活によって、神聖な油塗りに従い(二・二七)、わたしたちと神との一であることを実行することです。それはすべてわたしたちの霊の中に定住され、また神聖な油塗りの基礎的成分であられるすべてを含む調合された霊の活動によってです。

(ウイットネス・リー, ライフスタディ Iヨハネ第三集, 399-400)

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神の中に住む

 第四章十六節でヨハネは愛の中に住んでいる者は神の中に住んでおり、また神は彼の中に住んでおられると言います。愛の中に住むことは、神ご自身であるその愛をもって他の人たちを習慣的に愛する生活をすることであり、それは神がわたしたちにおいて表現されるためです。神の中に住むことは、わたしたちの内側の内容、また外側の表現として神ご自身である命を生きることであり、それはわたしたちが絶対的に彼と一であるためです。神がわたしたちの中に住まれるのは、内側ではわたしたちの命となり、また外側ではわたしたちの生活となることです。こうして彼がわたしたちと実際的に一となるためです。

 第四章十六節でわたしたちと神との間に一つの有機的な結合があるのを見ます。この有機的結合は「中に」という語で示されています。ヨハネが神は愛であること、また神の中に住んでいる者は愛の中に住んでいることを言わないのは興味深いです。そうではなく彼は愛の中に住む者は神の中に住んでいると言います。わたしたちには、前者のほうが一層論理的に見えるかもしれません。しかし後者はさらに実行的でまた実際です。わたしたちが愛の中に住むとき、神の中に住むと言うことは、わたしたちがその中に住む愛そのものが神ご自身であることを意味します。これはわたしたちが他の人たちに対して持つその愛は神ご自身であるべきことを意味します。もしわたしたちが神ご自身であるその愛の中に住むなら、そのとき、わたしたちは神の中に住み、また神はわたしたちの中に住まわれます。

(ウイットネス・リー, ライフスタディ Iヨハネ第三集, 405-406)

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神の聖霊を悲しませてはならない

 三〇節でパウロは言います、「また、神の聖霊を悲しませてはいけません。この方の中で、あなたがたは贖いの日へと証印を押されたのです」。この節の初めの「また」は、二五節から二九節で述べられたすべての事に加えて、一つの重要な事が必要であること、すなわち、わたしたちは聖霊を悲しませてはならないことを示しています。聖霊を悲しませるとは、彼を不愉快にさせることです。聖霊は、わたしたちの中に永遠に住んでおられ(ヨハネ十四・十六–十七)、決してわたしたちを離れ去ることはありません。ですから、わたしたちが彼にしたがって歩まない時(ローマ八・四)、すなわち、日常の歩みの詳細の中で、恵みと実際の原則にしたがって生きない時、彼は悲しまれます。わたしたちが日常の歩みの詳細について、実際と恵みの原則にしたがって生活するなら、わたしたちは神の聖霊を悲しませることはないでしょう。しかしながら、もしわたもたちがこのように生きないなら、わたしたちの内側のその霊は悲しまれるでしょう。

 聖霊が悲しまれるとは、彼がわたしたちに対して幸いでないことを意味します。しばしばわたしたちが幸いでないと感じる時、その幸いでない感覚は、実は聖霊の感覚です。しかしながら、彼がわたしたちの内側で幸いを感じられる時、わたしたちも幸いです。実際にしたがった、恵みの中の正常な生活は、常に聖霊を幸いにし、わたしたちにその霊の喜びを与えます。

(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ エペソ人への手紙(ニ), 259-260)

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本ページ及び本ページにリンクされている記事はChristian Web Sites掲載のWitness Lee: Quotes on the Triune Godに基づいて構成されています。本ページに掲載されている内容の無断転載を禁じます。掲載されている書物および回復訳聖書の抜粋はliving Stream Ministryに著作権があり、JGW日本福音書房から許可を受けて掲載しています。


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