第四章 その霊は三一の神の究極的な完成である

三一の神・目次>第四章 その霊は三一の神の究極的な完成である

  1. 神は霊である
  2. その霊は父と子によって遣わされて、父「から共に」来る
  3. その霊は子の名の中で来る
  4. その霊は三一の神の究極的な完成であり、最終的な表現である

1.神は霊である

ヨハネ福4:24  神は霊であるから、彼を礼拝する者は、霊と真実の中で礼拝しなければならない」。

神全体がその霊である

 ヨハネによる福音書第四章二四節は、「神は霊である」と言います。ここの「神」は、確かに神全体、すなわち父、子、霊を示します。神全体、すなわちその霊だけでなく、その霊と御父と御子が、霊です。ですからわたしたちは、その霊だけが霊であって、御父は霊ではないとか、御子は霊ではないとか言うことはできません。御父、御子、その霊の三がすべて霊であるように、彼らすべては一です。御父は霊であり、御子は霊であり、その霊は霊です。神全体が霊です。その霊として、神聖な三すべては一です。

(ウイットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上), 228)

 ある人たちは三一の神がそのような霊であるとわたしたちが言うのに反対さえするでしょう。しかし、彼らは主ご自身でさえ、神は霊であると言われたことを忘れているのです(ヨハネ四・二四)。これは創造者なる神だけが霊であるという意味でしょうか。御父はその霊ではなく、御子はその霊ではないのでしょうか。これはただその霊だけが霊であることを示すのでしょうか。これは三位一体の伝統的教えです。ヨハネ第四章二四節における神はただその霊なる神なのでしょうか。彼は子なる神ではないのでしょうか。彼は父なる神ではないのでしょうか。もちろん三一の神―御父、御子またその霊がそこにおられます。もしその霊がその霊であるなら、御子はその霊ではないのでしょうか。御父はその霊ではないのでしょうか。主イエスは、神は、三一の神を意味して、その霊であると言われました。今日大抵のクリスチャンは三一の神に関していわゆる伝統的、神学的用語を知っているだけです。彼らは父なる神は一人、子なる神は一人そしてその霊なる神は一人であると言います。彼らはこれらは三人の分離した別個の格位である、「だからあなたがたは御父はその霊である、そして御子はその霊であると言うことはできない」と言います。あなたはその霊はその霊であると言うことができるだけです。わたしたちは神は霊であると言っているヨハネ第四章二四節について彼らに尋ねなければなりません。

(ウイットネス・リー, 成就する訓練(3), 162-163)

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それは完全にその霊の事柄である

 三一の神は完全にその霊の事柄です。第一に、本質において、彼は霊です。ヨハネによる福音書第四章二四節は、「神は霊である」と言います(ギリシャ語では、「霊」の言葉の前には冠詞はついていません)。これは神の本質を指しています。例えば、木製のテーブルの本質は木です。こういうわけでわたしたちは、そのテーブルは木であると言うことができます。神は霊です。神の本質は霊です。第二に、神のエコノミーにおいて、神は父、子、霊です(マタイ二八・十九)。神はエコノミーを持っており、彼のエコノミーの中で、御父は計画する方であり、御子は達成する方であり、その霊はそのすべてを適用する方です。神のエコノミーは最終的に、その霊の中にあります。第三に、主の贖いにおいて、最後のアダムは命を与える霊と成りました(Iコリント十五・四五)。主はやって来られて、最後のアダムとなり、贖いを達成し、復活して、命を与える霊と成りました。今日、わたしたちが享受している主はその霊であり(Ⅱコリント三・十七)、その霊は三一の神そのものです。彼の本質は霊であり、彼のエコノミーは最終的にその霊の中にあり、彼の贖いもその霊へともたらします。結果として、今日わたしたちが所有し、享受し、経験している主は、その霊です。神は、永遠において計画を立て、時間の中でやって来て創造し、人と成り、十字架上で死に、贖いを達成し、復活し、昇天し、下ってきてわたしたちを訪れました。この神は、その霊です。この霊については、語ることがあまりにも多くあります。この霊はあまりにも豊かです! この霊の中には、神がおられます。この霊の中には、人もおられます。この霊の中には、十字架の効果ある殺す力があります。この霊の中には、復活、復活の命、復活の力もあります。この霊の中には、昇天と超越があります。この霊の中には、栄光、御座に着くこと、王職、王国もあります。ハレルヤ、この霊はすべてを含みます!

 この霊は命の霊であり(ローマ八・二)、ちょうどわたしたちの中に息吹き込まれた息のようであり、わたしたちの命となります。この霊はまた力の霊でもあり(使徒一・八)、ちょうどわたしたちの上に吹く風のようであり、わたしたちの力となります。この霊は、命を与える霊(Ⅰコリント十五・四五Ⅱコリント三・六)、満ちあふれる供給の霊(ピリピ一・十九)、人を自由にする霊(Ⅱコリント三・十七)、聖別する霊(Ⅰペテロ一・二)、造り変える霊(Ⅱコリント三・十八)、導き、とりなす霊(ローマ八・十四二六)、他の多くの機能を持つ霊です。この霊は、わたしたちを再生し(ヨハネ三・五-六)、わたしたちを油塗り、わたしたちに証印を押し(Ⅱコリント一・二一-二二エペソ一・十三四・三〇)、今やわたしたちの中におられて、わたしたちの永遠の分である神の担保となられます(エペソ一・十四Ⅱコリント五・五)。この霊は、初穂でもあります。すなわち、神がわたしたちをもたらそうとしておられる栄光の自由の前味わいです(ローマ八・二三)。わたしたちはみな、この霊の中にバブテスマされました。今やわたしたちは、この霊から飲むようにされています(Ⅰコリント十二・十三)。

 このすべてを含む大能の霊は、わたしたちの霊の中に入り(Ⅱテモテ四・二二)、わたしたちの霊と結合されて一つ霊となりました(Ⅰコリント六・十七)。ですから、わたしたちは自分の霊に戻らなければなりません。今日、もしわたしたちが主をわたしたちのすべてとして経験し享受しようとするなら、わたしたちは自分の霊に戻らなければなりません。しかしながら、わたしたちの霊に戻るのを学ぶだけでは十分ではありません。わたしたちは日常生活において霊にしたがって歩かなければなりません。この霊が聖霊であるか、わたしたちの霊であるかを述べるのは、かなり困難です。なぜならそれは、これら二つの霊のミングリングされた霊であるからです。わたしたちは、自分の感情や、自分の思いや、自分の意志にしたがって歩いてはならず、この霊にしたがってのみ歩かなければなりません。わたしたちのすべての語り方、振る舞い、日常生活、行動、働きは、この霊にしたがって行なわれなければなりません(ローマ八・四-六ガラテヤ五・十六二五)。もしわたしたちが霊のことを思い、そのような方法で霊にしたがって歩くなら、わたしたちは、霊の中で生きる者となり、主の霊の内住を絶えず持つ者となり、霊なる主と共に歩く者となるでしょう。霊なる主は、わたしたちの生活とすべてになります。そしてわたしたちは、父、子、霊という三一の神のすべての豊富を享受するでしょう。わたしたちはからだの中で生きます。このからだは、その霊の中でバブテスマされ、その霊で満たされており、すなわち召会です。そしてわたしたちは、霊の中にある神の住まいとなり(エペソ二・二二)、神の全豊満へと満たされ、こうして神は栄光を受けられます(エペソ三・十九二一)。

(ウイットネス・リー, 三一の神 すなわち、父、子、霊に関して, 40-43)

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2.その霊は父と子によって遣わされて、父「から共に」来る

ヨハネ福14:16  わたしは父にお願いしよう.そうすれば、彼はあなたがたに別の慰め主を与えて、いつまでも、あなたがたと共にいるようにしてくださる.

ヨハネ福14:26  しかし慰め主、すなわち、父がわたしの名の中で遣わされる聖霊は、あなたがたにすべての事を教え、またわたしがあなたがたに言ったすべての事を思い起こさせてくださる。

ヨハネ福15:26 しかし、わたしが父からあなたがたに遣わす慰め主、すなわち、父から出て来る実際の霊が来る時、彼はわたしについて証しする.

15:26ノート1  ギリシャ語の意味は、「・・・・から・・・・共に(from with)」(参照、1:14のノート5)です。御父から御子によって遣わされた実際の霊は、御父から来ただけでなく、御父と共に来られました。御父は源です。この霊が源から来る時、彼は源から離れるのではなく、源と共に来られます。御子に遣わされ、御父と共に来られるこの霊は、御子について証しされます。ですから、御子についての彼の証しは、三一の神の事柄です。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

御子によって遣わされた

 この節で、主は弟子たちに実際の霊を遣わすと言われました。しかし第十四章二六節で主は、御父が御子の名の中で慰め主、聖霊を遣わされると言われました。ヨハネは同じ事について、二つの異なる言い方をしています。第一に、第十四章二六節では、御父がその霊を遣わされると言います。今、第十五章二六節では、主ご自身がその霊を遣わされると言います。それでは、だれがその霊を遣わされたのでしょうか、御父でしょうか、御子でしょうか? わたしたちは、その霊は御父と御子の両方によって遣わされたと言わなければなりません。御父と御子は一です。御父が遣わすのは御子が遣わすことであり、御子が遣わすのは御父が遣わすことです。両者は一です。その霊を遣わされるのはだれであろうと、その霊は常に御父と共に、御子の名の中で遣わされます。再び、わたしたちは三一の神を見ます。その霊が来る時、御父と共に、御子の名の中で来られます。ですから、神たる方の三すべてがここにあります。

(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ ヨハネによる福音書(二), 149)

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御父からだけでなく御父と共に

 二六節で、主は御父から慰め主を遣わすと言われました。第三二編で指摘したように、この節の「から」と訳されたギリシャ語の前置詞は「パラ」(pala)です。ギリシャ語のこの前置詞のここでの意味は、「……から……共に」です。実際の霊は御子によって、御父からだけでなく御父と共に遣わされます。慰め主は御父から、御父と共に来られます。御父は源です。その霊が源から来られる時、それは彼が源を離れたのではなく、その源が彼と共に来られることを意味します。この霊は御子によって遣わされ、御父と共に来て、御子について証しされます。ですから、御子についての彼の証しは、三一の神の事柄です。

(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ ヨハネによる福音書(二), 149-150)

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「から共に」

 Now we come to John 15:26, a wonderful verse. “But when the Comforter comes, Whom I will send to you from the Father, the Spirit of Reality Who proceeds from the Father, He will testify concerning Me.” We must take note of the word “from”\’ in this verse. The sense in Greek is “from with.” The Spirit of Reality is sent by the Son, not only “from” the Father, but also “with” the Father. The Comforter comes “from” the Father and “with” the Father. The Father is the source. When the Spirit comes from the source, it does not mean He leaves the source, but that the source comes with Him. This Spirit sent by the Son and coming with the Father, will testify concerning the Son. Therefore, His testimony concerning the Son is a matter of the Triune God. Listen! If a brother sends me to your place and I come from his place to your place, I can­ not say I will come from him and with him. We can\’t do this, but the Spirit can do this. The Spirit is sent from the Father, and when He comes from the Father He comes with the Father. His coming brings the Father. This is the history of the Trinity.

(Witness Lee, Stream Magazine, 1610)

 ヨハネによる福音書第七章二九節は、「わたしはその方を知っている。わたしは彼から来ており、彼がわたしを遣わされたからである」と言い、ヨハネによる福音書第十五章二六節は、「しかし、わたしが父からあなたがたに遣わす慰め主、すなわち、父から出て来る実際の霊が来る時、彼はわたしについて証しする」と言っています。これらの節と、ヨハネによる福音書第六章四六節のギリシャ語の前置詞「から」は、「から共に」の意味を持っています。御子は御父からだけでなく、御父から「共に」遣わされるのです。ヨハネによる福音書第十五章二六節で主は、彼は御父から「共に」その霊を遣わすと言われます。人の観念によれば、その霊は御父から遣わされるのであって、御父は天にとどまっておられます。しかしながら、実際の霊は御子によって、御父からだけでなく、御父と共に遣わされるのです。慰め主は御父から、御父と共に来られます。御父は源です。その霊が源から来られる時、それは源を離れるのではなく、源が彼と共に来ることを意味します。御子によって遣わされ、御父と共に来るこの霊は、御子について証しされます。神格の三は三で一です。父、子、霊は、三つの分離した神々ではなく、一つの唯一の神です。これが神の純粋な言葉にしたがった三一の神の正しい理解です。しかしながら、三一の伝統的な観念を保持する人たちは、実際上、三人の神を持ちます。

(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ ヨハネによる福音書(二),295)

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3.その霊は子の名の中で来る

ヨハネ福14:26  しかし慰め主、すなわち、父がわたしの名の中で遣わされる聖霊は、あなたがたにすべての事を教え、またわたしがあなたがたに言ったすべての事を思い起こさせてくださる。

14:26ノート1 慰め主、聖霊は、御父によって御子の名の中で遣わされました。ですから聖霊は、御父によっても、御子によっても遣わされました。こうして、聖霊は御父からだけでなく、御子からも来て、御父の実際となり、御子の実際ともなられます。こういうわけで、わたしたちが御子の名を呼び求める時、その霊を得るのです(Ⅰコリント12:3)。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

 慰め主、聖霊は、御父によって御子の名の中で遣わされます。ですから、聖霊は御子の名の中で来て、彼の御名の実際となられます。「わたしの名の中で」とはどういう意味でしょうか? 名は御子ご自身であり、その霊は御子のパースン、存在です。御子の名を呼び求める時、わたしたちはその霊を得ます(Iコリント十二・三)。御子は御父の名の中で来られました(五・四三)。なぜなら、御子と御父は一つであるからです(十・三〇)。今や、その霊は御子の名の中で来られます。なぜなら、その霊と御子も一つであるからです(Ⅱコリント三・十七)。これは、最終的にその霊としてわたしたちに届く三一の神 - 父、子、霊です。

 その霊は御子の名の中で来られます。イエスの御名を呼ぶ時、その霊が来られます。御子の名はイエスであり、彼のパースンはその霊です。父なる神はその霊を遣わされ、その霊は御子の名の中で来られます。最終的に、来られるのは三一の神です。その霊がわたしたちに来られる時、御父も来られます。御子もここにおられます。なぜなら、その霊は御父と共に、御子の名の中で来られるからです。御父はご自身から共にその霊を遣わされ、その霊は御子の名の中で来られます。その霊は御子として来られます。彼は御子の来られることであり、この御子の来られることは御父から共にです。ですから、一が来られる時、三のすべてがあるのです。

 これをもう一度言いましょう。御父はご自身と共にその霊を遣わされます。その霊が御父と共に来られるので、御父はその霊と共に来られます。その霊は御子の名の中で、御子として来られます。その霊が来られる時、来られるのは御子です。ですから、その霊が来られる時、三のすべてがあるのです。

 その霊は主の復活の後に来て、主が十字架につけられる前、彼らに話されたすべての事を、弟子たちに思い起こさせられました。これは、御父から共に遣わされ、御子として、御子の名の中で来られたその霊が思い起こさせることです。名は御子ご自身であり、その霊は御子の存在、パースンです。弟子たちは御子の名を呼んだ時、その霊を受け、その霊は、御子が死の前に彼らに話された事を思い起こさせました。

(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ ヨハネによる福音書(二),97-99)

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4.その霊は三一の神の究極的な完成であり、最終的な表現である

ヨハネ福7:37  祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って叫んで言われた、「だれでも渇く者は、わたしに来て飲むがよい。

7:38  わたしの中へと信じる者は、聖書が言っているように、その人の最も内なる所から、生ける水の川々が流れ出る」。

7:39  イエスはこれを、彼の中へと信じる者たちが受けようとしているその霊について言われたのである.イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、その霊はまだなかったからである

7:39ノート1  神の霊は初めからありました(創1:1-2)が、キリストの霊としてのその霊(ローマ8:9)、イエス・キリストの霊(ピリピ1:19)は、主がこの言葉を語られた時には、まだありませんでした。なぜなら、主はまだ栄光を受けておられなかったからです。イエスが栄光を受けたのは、彼が復活された時です(ルカ24:26)。イエスの復活の後、神の霊は、受肉し、十字架につけられ、復活して、イエス・キリストの霊と成りました。キリストが復活した日の夕方、その霊は、彼によって弟子たちの中に息を吹き込まれました(20:22)。その霊は、今や「別の慰め主」、キリストが死ぬ前に約束された実際の霊です(14:16-17)。この霊が神の霊であった時、彼には神聖な要素があるだけでした。彼がキリストの受肉、十字架、復活を通して、イエス・キリストの霊と成られた時、その霊は、神の要素と人の要素の両方、それにキリストの受肉、十字架、復活のすべての本質と実際を含んでいました。ですから、その霊は今や、すべてを含むイエス・キリストの霊であり、それがわたしたちの受ける生ける水です(38-39節)。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

使徒16:6  また、彼らはアジアで御言を語ることを、聖霊に禁じられたので、フルギヤとガラテヤの地方を通って行った。

16:7 彼らがムシヤに来た時、ビテニヤに入って行こうとしたが、イエスの霊が彼らを許さなかった。  

16:7ノート1  「イエスの霊」と前の節の「聖霊」は、交換して用いることができます。これは、イエスの霊が聖霊であることを啓示しています。「聖霊」は、新約では神の霊の一般的称号です。「イエスの霊」は、神の霊についての特殊な表現であり、受肉した救い主の霊のことを言います。この方は、イエスとして、人性において人の生活と十字架上の死を経過されました。これは、イエスの霊の中には神の神聖な要素だけでなく、イエスの人の要素、彼の人の生活、彼の死の苦しみの要素もあることを示しています。使徒の宣べ伝えの務め、すなわち人の生活において人の間で遂行され、人のために苦難を受ける務めのためには、そのようなすべてを含む霊が必要でした。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

ローマ8:9  しかし、確かに神の霊があなたがたの中に住んでいるなら、あなたがたは肉の中にいるのではなく、霊の中にいるのです。もしだれでもキリストの霊を持たないなら、その人はキリストのものではありません。

ピリピ1:19  というのは、あなたがたの祈り求めることと、イエス・キリストの霊満ちあふれる供給を通して、このことがわたしにとって救いとなることを知っているからです.

1:19ノート3  ギリシャ語の言葉は、合唱隊の編成者、指揮者が、団員のあらゆる必要を供給することを意味します。すべてを含む霊の満ちあふれる供給は、キリストのために苦難を受ける中で、パウロがキリストを生き、大きく表現することを可能にしました。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

1:19ノート4  神、キリスト、その霊についての聖書の啓示は前進しています。その霊は最初に、創造と関係するとき、神の霊として述べられています(創1:2)。次に、神が人と関係する文脈の中で、エホバの霊として(士師3:10サムエル上10:6)、キリストの受胎と誕生と関係する時、聖霊として(ルカ1:35マタイ1:20)、主の人としての生活と関係する時、イエスの霊として(使徒16:7)、主の復活と関係する時、キリストの霊として(ローマ8:9)、そしてここでは、イエス・キリストの霊として述べられています。
イエス・キリストの霊は、ヨハネによる福音書第7章39節に述べられている「その霊」です。これは単に、主が受肉される前の神の霊ではなく、主が復活された後の神の霊であり、主の受肉(人性)、十字架の下での人の生活、十字架刑、復活と調合された神性を伴う聖霊です。出エジプト記第30章23節から25節の聖なる塗り油、すなわちオリブ油と四種類の香料との調合物は、神のこの調合された霊の完全な予表でした。その方は今や、イエス・キリストの霊です。ここでは、イエスの霊(使徒16:7)でなく、キリストの霊(ローマ8:9)でもなく、イエス・キリストの霊です。イエスの霊は、おもに主の人性と人の生活と関係があります。キリストの霊は、おもに主の復活と関係があります。第2章5節から8節に描かれている主の人性を経験するために、わたしたちはイエスの霊を必要とします。第3章10節に述べられている主の復活の力を経験するためには、キリストの霊が必要です。使徒は彼の苦難の中で、主の人性における苦難と、主の復活の両方を経験しました。ですから、その霊は彼にとって、イエス・キリストの霊、すなわち、三一の神の調合された、すべてを含む、命を与える霊でした。使徒のような、キリストの人としての生活と復活を経験し享受している人にとって、そのような霊は、満ちあふれる供給を持ち、満ちあふれる供給でさえあります。最終的に、この調合されたイエス・キリストの霊は、神の七つの霊となります。この方は、神の御座の前にある七つのともし火であって、地上で神の行政を執行し、召会に関する神のエコノミーを成就します。彼はまた、小羊の七つの目であって、彼であるすべてを、召会の中へと注入されます(啓1:44:55:6)。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

三一の神の究極的完成

 混ざり合った、すべてを含む霊であるその霊は、三一の神の究極的完成です。わたしたちの神は三一、父、子、霊です。聖書を正しく学ぶすべての人は、三一の三つのパースンに区別があることに同意するでしょう。しかしながら、三が分離していると言うことはできません。そのような言い方は異端です。御子は地上に来た時、御父を天に残されたのではありません。その反対に、御子が来られた時、御父が御子と共に来られました。ヨハネによる福音書で主イエスは、御子は御父「から共に」来たと言っておられます(ヨハネ六・四六ギリシャ語)。彼は御父から来た時、御父と共に来られました。こういうわけで、主イエスは、自分は決して独りではない、なぜなら御父がいつも自分と共におられるからであると言われました(ヨハネ八・二九)。さらに、ヨハネによる福音書ではまた、御子は御父から共にその霊を遣わされると言われています(ヨハネ十五・二六ギリシャ語)。わたしたちは御子を御父から分離することはできませんし、その霊を御父と御子から分離することもできません。

 御父を見せていただきたいというピリポの求めに対する主の答えは、これを例証しています。ピリポは主に言いました、「主よ、わたしたちに父を見せてください。そうすれば、わたしたちは満足します」(ヨハネ十四・八)。主イエスは答えられました、「ピリポよ、わたしがこんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、あなたはわたしを知らなかったのか? わたしを見た者は父を見たのである。どうしてあなたは、『わたしたちに父を見せてください』と言うのか?」(九節)。十六節と十七節で主イエスは続けて言われました、「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、彼はあなたがたに別の慰め主を与えて、いつまでも、あなたがたと共にいるようにしてくださる。それは実際の霊である。世はその方を受けることができない。それは、世が彼を見ないし、知りもしないからである。しかし、あなたがたは彼を知っている。彼はあなたがたと共に住んでおり、あなたがたの中におられるようになるからである」。注意してください、次の節で主は代名詞を変えておられます。「わたしは、あなたがたをみなしごのままにはしておかない。わたしはあなたがたに来る」。これは、慰め主、実際の霊が来る時、主イエスも来られることを示しています。さらに、二三節で、主イエスは、彼と御父は主を愛し主の言葉を守る者の所へ行って、共に住まいを造ると言われました。これらの節から、神たる方の三に区別はあっても、常に一緒であることを見ます。彼らは分離されることができません。

 聖書によれば、御父は御子の中に具体化され、御子はその霊として実際化されます。究極的に、神たる方の三はその霊として表現されます。こういうわけで、経験的に、わたしたちが主イエスの御名を呼び求める時、その霊を受けるのです。わたしたちが悔い改めて、主イエスを信じ、彼に祈った時、聖霊に、中に入って来てくださるようにと求めたのではありません。むしろ、わたしたちは、主イエスが中に入って来てくださるようにと祈りました。しかしながら、わたしたちは主に入って来てくださるように求めましたが、実際に入って来られた方はその霊でした。これは、わたしたちが救われた時だけでなく、日ごとに主を経験する時にもそうです。わたしたちが御父に祈る時、あるいは主イエスの御名を呼び求めて、主を愛しますと言う時、最終的に、わたしたちと共に、またわたしたちの中におられることを経験する方は、その霊です。わたしたちの経験から、この霊、混ざり合った、すべてを含む霊は、三一の神の究極的完成であることを知ります。

(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ ガラテヤ人への手紙(二),171-173)

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手順を経た神

 わたしたちの神は真に今日、手順を経た神です。旧約には、神が手順を経られたという暗示はありません。この手順はキリストの受肉の時に始まり、彼の人の生活、十字架、復活と続きました。あるクリスチャンは、「手順を経た神」という表現に異議を唱えて、神は永遠であり、決して変わらないと議論します。そうです、聖書にしたがって、神は永遠であり、決して変わらないことを、わたしたちははっきりと信じます。それにもかかわらず、わたしたちはやはり聖書にしたがって、神は受肉、人の生活、十字架、復活の手順を経過されたことを信じ、教えます。神は変わりませんが、手順を経過されました。神は性質、実質において変わることはありません。しかし彼は手順を経過されました。ヨハネによる福音書第一章一節十四節によれば、初めに神と共にあり、神であった言は肉体と成りました。ヨハネによる福音書第一章十四節で「成った」という言葉を使っているのは、手順を示しています。同じように、コリント人への第一の手紙第十五章四五節は、最後のアダムは命を与える霊と成ったと言います。これは神の手順をさらに示すものです。

 ある人は、「手順」という言葉は聖書に見いだせないので、わたしたちがこの言葉を用いることに異議を唱えるかもしれません。しかしながら、三一という言葉についても、同じように異議を唱えることがなされてよいはずです。三一という言葉も聖書に見いだせませんが、聖書はそれでも神が三一であるという事実を啓示しています。同じ原則で、聖書には「手順を経た」という言葉はありませんが、神は手順を経過されたという事実を啓示しています。神ご自身が受肉によって人と成り、三十三年半、地上で生活されました。次に彼は十字架につけられ、ハデスに下り、死人の中から出て来て、復活の中に入られました。さらに、彼は肉と骨の栄光化された体をもって天に昇られました。今でさえ、主はそのような体をもって御座におられます。キリストの受肉の前に、天の御座におられる主は肉と骨の体を持っておられたでしょうか?絶対にありません! しかし永遠に、彼はそのような体をもって御座に着いておられます。この事実は、キリストにある神が手順を経過されたことを示していないでしょうか? ハレルヤ、わたしたちの神は今日、手順を経た三一の神です! すべてを含む、命を与える霊は、この手順を経た神の究極的表現です。

(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ ガラテヤ人への手紙(二),173-174)

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本ページ及び本ページにリンクされている記事はChristian Web Sites掲載のWitness Lee: Quotes on the Triune Godに基づいて構成されています。本ページに掲載されている内容の無断転載を禁じます。掲載されている書物および回復訳聖書の抜粋はliving Stream Ministryに著作権があり、JGW日本福音書房から許可を受けて掲載しています。


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