第八章 福音書と使徒行伝の中で啓示されている三一の神

三一の神・目次>第八章  福音書と使徒行伝の中で啓示されている三一の神

  1. THE GOSPELS IN GENERAL
  2. 罪人に対する三一の神の愛(ルカ第15章)
  3. 使徒行伝における三一の神
    1. 主の名を呼び求める
    2. 主の名の中へバプテスマされる

1.THE GOSPELS IN GENERAL

マタイ28:19 だから、行って、すべての国民を弟子とし、父と子と聖霊のの中へと彼らをバプテスマして、

28:19ノート5 神聖な三一に対して一つの名があります。その名は神聖な方の総合計であり、彼のパースンに等しいです。だれかを三一の名の中へとバプテスマするとは、彼を三一の神のすべての中に浸し込むことです。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

 新約の最初の書であるマタイによる福音書の終わりに来てはじめて、主は父、子、霊について明確に語り、三者について共に語り、彼らに対して単数の「名」を用いています。なぜこのような開示がこの時までなされなかったのでしょうか? なぜなら、この時になって、すなわち、主の死と復活の後、御子は、御父が計画したすべてを達成し、聖霊は、御子が人の上で達成したすべてを適用するために来ようとしておられたからです。こうして、人々を父、子、霊の名の中へとバプテスマすることが、すなわち、彼らを三一の神の中へとバプテスマすることが可能になったのです。この神は、計画を立てる神であり、達成する神であり、適用する神です。彼は、三・一であり、一・三である神、すなわち、父、子、霊です。
 アンドリュー・マーレーは、「キリストの御霊」の第二〇章において、わたしたちがここで述べた事を確証し、強調しています。彼は次のように述べています、「御父においてわたしたちは、見えない神、すべてのものの創始者を持ちます。御子において、啓示された神、明らかにされた神、近くへともたらされた神を持ちます。彼は神の形です。神の霊においてわたしたちは、内住の神を持ちます。内住の神とは、神の力であり、人の体の中に内住して、御父と御子がわたしたちのために持っておられるものをその中に造り込むのです。……御父が意図されたもの、御子が獲得されたものが、適用されて、依然としてここにおいて肉体の中にあるキリストの肢体たちにおいて効力を発するのは、聖霊の絶えざる介入と活発な活動を通してのみです」。
 始まりのない永遠において、父なる神はご自身の願いにしたがって計画されました。時間の中で、子なる神はそれを達成されます。彼はまず創造を達成しました。創造の後、人が堕落した時、彼は人と成って、堕落した人を贖いました。消極面では、彼は死なれて、人を贖いました。積極面では、彼は死人の中から復活して、命を解き放ち、父なる神のために多くの子たちを生み出し、こうして父なる神のご計画を達成しました。彼の死と復活の後、彼は命を与える霊と成りました(Iコリント十五・四五)。そして、そのような方として、わたしたちの霊の中に入ってきて、三一の神すべてをわたしたちの中にもたらし、わたしたちと結合させるだけでなく、わたしたちとミングリングさせて、一としました。この時になって、この神はとても奥義的であり、とても全体的であり、とても満ち満ちています。今日、わたしたちは福音を宣ペ伝える時、人はこのような神を必要とすることを告げるのです。人は彼を、救い主、命、すべてとして必要とします。人が信じる時、わたしたちは彼らをこの三一の神の中へとバプテスマします。ですから、父、子、霊という事柄があるのです。

(ウイットネス・リー, 三一の神、すなわち、父、子、霊に関して, 17-18)

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マタイによる福音書とヨハネによる福音書の二冊は、神聖な三一が聖書の他のいずれの書物よりも完全に啓示されています。それは、神の選びの民が彼にあずかり、享受するためです。ヨハネは、父と子と霊における神たる方の奥義を、特に第十四章から第十六章で、わたしたちの命の経験のために啓示しています。マタイは、王国の設立のために、三のすべてに対する一つの名を与えることによって、神聖な三一の実際を明らかにしています。マタイの開始の章で、聖霊(一・十八)、「 キリスト(御子— 一・十八)、神(御父— 一・二三)が、人なるイエスを生み出すために(一・二一)登場します。この方はエホバ救いい主、神われらと共にいます方として、まさしく三一の神の具体化です。第三章でマタイは開かれた天の下で、バプテスマの水の中に立つ御子、御子の上に下るはととしてのその霊、天から御子に語りかける御父という絵を提示します(三・十六–十七)。第十二章では、御子は人のパースンの中で、御父の王国をもたらすために、その霊によって悪鬼どもを追い出されました(十二・二八)。第十六章では、王国の命脈である召全の建造のために、御父は御子を弟子たちに啓示されました(十六・十六–十九)。第十七章では、御子は変貌されましたが(十七・二)、それは王国の出現の縮図の展覧であることが(十六・二八)、御父の喜びの言葉(十七・五)によって確認されました。最後に終わりの章では、キリストが、最後のアダムとして、十字架の手順を経過し、復活の領域の中に入り、命を与える霊と成った後、復活の雰囲気と実際の中で、弟子たちの所に戻って来て、異教徒を神聖な三一の名、パースン、実際の中へとバプテスマすることによって、王国の民とするようにと彼らに命じられました。その後、使徒行伝と書簡で、人々を父と子と霊の名の中へとバプテスマすることは、彼らをキリストの名の中へとバプテスマすることであり(使徒八・十六、十九・五)、彼らをキリストの名の中へとバプテスマすることは、キリストのパースンの中へとバプテスマすることであると(ガラテヤ三・二七、ローマ六・三)示されています。なぜなら、キリストは三一の神の具体化であり、命を与える霊と成って(Iコリント十五・四五)、どんな時どんな場所でも、人々が彼の中へとバプテスマされるのに便利な方であることが、明らかにされているからです。父と子と霊の実際の中へとパプテスマされることは、マタイによれば、天の王国の設立のためです。地的社会と異なって、天的王国は、肉と血から成る人で組織されることはあり得ません(Iコリント十五・五〇)。それは三一の神との結合の中へと浸し込まれ、彼らの中へ造り込まれた三一の神で、確立され建造されている人々によってのみ、構成され得るのです。

(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ マタイによる福音書(三), 311-313)

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ヨハネ第十四章の中に啓示された三一の神

ヨハネ第十四章七から十一節で主は御父について語られました。するとピリポは愚かな質問をしました、「主よ、父をわたしたちに見せてください、そうすればわたしたちは満足します」。主は彼らの間にずい分長くおられたのに、ピリポがまだ彼を知っていなかったことに驚かれました。来る日も来る日もピリポは彼と共にいました。ピリポは彼を見ることが御父を見ることであると認識していなかったのでしょうか。どうしてピリポは御父を見せてくださいと求めたのでしょう。主は御父の中におられ、御父は彼の中におられました。彼が語っておられる言葉でさえ、ご自身からではありませんでした。御父は彼の中に住んでおられて、彼のわざをしておられました。ピリポは彼が御父の中におられ、御父が彼の中におられることを信じていなかったのでしょうか?
 人間関係では父と息子は一つではありません。息子は父が自分の中にいるとか、彼が父の中にいるとか言うことができません。彼は父と一つではありませんし、自分が語っている間、父がわざを行なっているのでもありません。そのような一は地的レベルでは存在しません。全宇宙において神の御子だけが彼と御父との関係についてこのように言うことができます。三一の中で御父と御子には区別があります、彼らは二です。しかし彼らは一です。というのは御子は御父の中におられ、御父は御子の中におられるからです。何とすばらしい奥義でしょう!
 ピリポとの会話の後、主は続けてさらに不思議なことを言われました(ヨハネ十四・十六–十八)。「わたしは父にお願いしよう、そうすれば父はあなたがたにほかの慰め主を与えてくださる、彼がいつまでもあなたがたと共にいてくださるためである」。弟子たちはすでに主を慰め主として持っていました。今や彼はもう一人のかた、実際の霊を彼らに与えるように御父に願われました。この第二の慰め主は彼らの中におられることになります、しかし第一は彼らの間にいることができるだけでした。「わたしはあなたがたをみなしごにしてはおかない」、主は言われました、「わたしはあなたがたに来る」。奇妙です! 彼らにこられたのはいったいだれでしょうかー主ですか、それとも実際の霊ですか。二人がこられたのですか。いいえ、一人こられただけです。慰め主が彼らの中におられるとき、主は彼らの中におられます。

(ウイットネス・リー, ヨハネの繕う務め,51-53)

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 わたしたちが三一の問題に触れる時は、わたしたちの深みにいません。わたしは繰り返し時間をかけてこの章を学び、主が言っておられることを知ろうとしました。しかし読めば読むほど、学べば学ぶほどますます迷路にいることがわかりました。結局、わたしは分析的な学びを離れ、ヨハネ第十四章を書いてあるとおり単純に受け取りました。それは御父は御子の中におられ、御子は御父の中におられることを告げています。それは実際の霊がこようとしていることを告げています。彼は御父と御子を実際にされます。彼らの一人がわたしたちと共にあることは、三のすべてがわたしたちと共にあるという意味です。三はここで別々ではありません。彼らは一です。
 あなたの経験を考えてご覧なさい。あなたは御父、御子、その霊を持っていませんか。彼らはどこにおられますか。彼らはあなたの霊の中におられると同時に御座の天にもおられます。これはわたしたちの享受する神です!
 わたしはプラザレンにいた時、その霊の力を通し御子の名の中で父に祈るようにと教えられました。ある環境の下で、しばしばではなくても、御子に祈ることはよろしい、しかし決して聖霊に祈るようにとは言いませんでした。彼らの教えに従おうと努めましたが、わたしには厄介でした。わたしが祈っている御父はどこにおられるのでしょうか。祈る時に、御父と御子をどのように区別することができるでしょうか。その霊はどこにおられたでしょうか。結局、わたしはこの混乱から出てきました。彼らのすべてはわたしたちと共におられると、新約聖書はわたしたちに告げます。三は一です。
 「神は霊である」、ヨハネ第四章二四節は言います。三一の第三は聖霊です。復活の中で御子は命を与える霊となられました (Iコリント十五・四五)。 御父は霊であり、御子は命を与える霊で、聖霊も別の霊なのでしょうか。三つの霊があるのでしょうか。そうではありません! これらの三は一つ霊です。わたしがあなたを神学的混乱に、または知的興奮にもたらそうとしていると思わないでください。わたしの額いはわたしの三一の神の享受を分け与えたいだけなのです! 来る日も来る日も朝から晩まで御父、御子、その霊はわたしの全き享受です。わたしの中に三一の神を持っています、何と幸いでしょう!

(ウイットネス・リー, ヨハネの繕う務め,53-54)

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ヨハネ第十五章の三一の神と枝々

 ヨハネ第十五章は第十四章にもまして栄光です! 「わたしはまことのぶどうの木である、そしてわたしの父は農夫である」と主は宣言されます。この絵に暗示されていることを考えてご覧なさい。御父はこのぶどうの木の源、起源です。それは彼によって植えられ、また彼によって栽培され、供給れました。彼はその土地、日光、空気です。御子は御父を具体的に表現するぶどうの木です。御父が何であられ、所有しておられ、行なわれる一切はこのぶどうの木の中に包まれています。
 ヨハネ第十五章二六節に来ると、その霊が現れます。「父からあなたがたに遣わす慰め主、すなわち父から出てくる実際の霊がこられる時、彼はわたしについて証しされる」。ここに二度「から」と訳されているギリシャ語の前置詞は、正確な英語の等値語がありません。それは「から共に」(from with)を意味します。その霊は御父から、また御父と共にこられるのです。二者は分けることができません。その霊がこられる時、御父がこられます。
 これは御子についても全く同じです。彼は御父から御父と共にこられました。彼は地上におられたとき、一人ではありませんでした。御父は彼と共におられました(ヨハネ八・十六、二九)。 彼はどこにおられても、御父もそこにおられました。三一の三には区別があります、しかし分離していません。わたしたちは御父を持つとき、御子を持っています。御子を持つときには、御父を持ちます(Iヨハネ二・二三)。御子と共にその霊を持ちます。御父はぶどうの木の源です。御子はぶどうの木です。その霊はぶどうの木の命のジュースです。

(ウイットネス・リー, ヨハネの繕う務め,54-55)

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 この偉大なぶどうの木は三一の神の有機体です。父が何であられるかの一切はこの有機体の中に、三一の第二であられるこのぶどうの木の中に具体化されています。ぶどうの木の中にはその霊の命の流れが循環しています。ぶどうの木とその枝を支えるのは、御父のもろもろの豊富を運ぶその霊です。これはわたしたちがその中へと接ぎ木されたぶどうの木です。わたしたちは三一の神のこの有機体へと接ぎ木されました!
 これはわたしたちが神化されたことを意味するのでしょうか?わたしは神格(Godhead)には四つ —御父、御子、その霊、召会があるといって教えていると非難されています。わたしたちは礼拝の対称ではありません、しかし確かに神聖な命と神聖な性質を持っているのです。枝々は疑いもなくぶどうの木の命と性質を持っています。わたしたちは神の子たちです。神がわたしたちの父である以上、わたしたちは確かに彼の命と性質を持っています。わたしたちはキリストのからだの肢体です。わたしたちは確かにかしらと一つです。
 ヨハネ第十四章は御父、御子、その霊の関係を開いて見せます。ヨハネ第十五章はさらに枝々を伴うぶどうの木について語ります。ヨハネ第十六章は再び三一の神について語ります。

(ウイットネス・リー, ヨハネの繕う務め,55-56)

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ヨハネ第十六章の中の三一はわたしたちの経験と享受のためである

 「実際の霊がこられる時、彼はあなたがたをすべての実際の中に導く………彼は来たるべきことをあなたがたに明らかにする。彼はわたしを栄光化させるであろう、なぜなら彼はわたしのものから受けてそれをあなたがたに明らかにするからである。父が持っておられるものはすべて、わたしのものである;こういうわけで彼はわたしのものから受けて、それをあなたがたに明らかにすると、わたしが言ったのである」(十六・十三–十五)。御父の持っておられるものは何でも御子のものです。ですから御子は御父の具体的表現です。御子が持っておられるものは何でもその霊に与えられました。ですからその霊は御子の実際化です。こうして彼はその霊が所有しておられるものをわたしたちに与えてくださいます。この順序から、わたしたちは結局すべてがわたしたちのものとなることを見ることができます! 御父の持っておられるものはすべて御子に属します。御子が持っておられるものをその霊が受けられます。その霊が受け取られたものを彼はわたしたちに明らかにしてくださいます。その霊、御子、御父は所有すべきわたしたちの一切です!
 あなたの経験はこれを確証するでしょう。あなたは確かにその霊が内におられるという確信があるでしょう。この霊は御子の実際化です。あなたの内側の御子は御父の具体的表現です。あなたはあなたの中に三のすべてを持っていることをどうして知りますか。その霊によってです! 彼はあなたにとって実際です、悲しみの時にあなたを慰めます、暗い中であなたを照らします、あなたがそれて行こうとするとき煩わせます。あなたは救われる前にそのような経験をしましたか。この内なる支えと供給があるのは、あなたが彼を信じてからです。内側におられるこの豊かなおかたは、御父の具体的表現であられる御子の実際化です。ですから三一の神はあなたの内側にあって、あなたの毎日毎時の享受です!
 三一の神の豊富を啓示している —ヨハネ第十四章、第十五章、第十六章— これら三つの章の後、御子は目を天に向けて祈られました、「父よ、時が来ました;子があなたを栄光化するために、あなたの子を栄光化してください」(十七・一)。 この栄光化はどのようにして生じたのでしょうか。それは信者たちの一によってです(十一、二一、二二、二三節)。

(ウイットネス・リー, ヨハネの繕う務め,56-58)

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ヨハネ第十七章における信者たちの一

(1)御父の名の中で、また彼の命によって

 御子は御父が彼に与えたすべての者たちに永遠の命を分け与える権威を与えられました(二節)。今や彼は祈られます、「聖なる父よ、あなたがわたしに与えられたあなたの名の中で彼らを守ってください、それはわたしたちと同様に彼らが一であるためです。わたしが彼らと共にいた時、わたしはあなたがわたしに与えてくださったあなたの名の中で彼らを守り、またわたしは彼らを保護しました」(十一–十二節)。 命と名は分けられません。御父の命なしには、どうしてわたしたちは彼の名を持つことができるでしょうか。もしわたしたちが彼から生まれなかったとしたら、彼はわたしたちの父ではないでしょう。神はわたしたちの父です、なぜならわたしたちは彼の命を持っているからです。ですからわたしたちは彼を「アバ父よ!」と呼びます。

(2)御言葉によって

 信者たちに永遠の命を与えることに加えて、主は言われます、「わたしは彼らにあなたの言葉を与えました、すると世は彼らを憎みました、ちょうどわたしが世のものでないように、彼らも世のものでないからです……彼らを真理の中で聖化してください;あなたの言葉は真理です……そして彼らのためにわたしは自分自身を聖化します、彼らもまた真理の中で聖化されるためです。しかしわたしはこれらの者についてだけでなく、彼らの言葉を通してわたしを信じる者たちについてもお願いします。それは彼らがすべて一となるためです。父よ、あなたがわたしの中におられ、わたしがあなたの中にいるように、彼らもまたわたしたちの中にいるためであり、あなたがわたしを遣わされたことを世が信じるためです」(十四–二一節)。
 主が信者たちに与えられた言葉は彼らを世から聖別します。彼らはこの世のものでなく、彼のものです。聖化する言葉は、彼らが世にいる間、彼らを守ります。
 ですから言葉、命、御名を通して信者たちは一へともたらされることができます。

(3)栄光によって

 「そしてあなたがわたしに与えられた栄光を、わたしは彼らに与えました、それはわたしたちが一であるように、彼らも一であるためです;わたしが彼らの中におり、そしてあなたがわたしの中におられるのは、彼らが一の中に完成されるためであり」(二二–二三節)。御子は御父を表現するため、父の命と性質を与えられました。御子の栄光は彼が御父の命と性質を持つことにより御父を表現することです。仮に大統領に息子がいて彼を代表として遣わすとします。この息子の栄光は、彼が命と性質において大統領を表現することです。神の御子は表現すべき父の命と性質を持っていたので、父から栄光を受けました。
 この御子の栄光を彼はわたしたちに与えられました。わたしたちは彼を表現するため御父の命と性質にあずかり、またその立場と権利とを持っています。わたしたちはこの栄光を持っています!
 わたしたちはこうして命を通して、御名の中で、御言葉によって、栄光の中で一へともたらされます。この一は本物です、なぜならこの一は三一の神の中にあるからです。わたしたちはそのような一の中で彼と混ざり合わされるのです。
 わたしたちがここにいるのは、この真の一のためです。彼の命を通し御父の名の中の一。この世からわたしたちを聖別する御言葉による三一の神の中の一。神の性質と命をもって彼を表現する栄光の中の一。これは御子と御父の栄光化です! そしてこれが召会生活です!

(ウイットネス・リー, ヨハネの繕う務め,58-60)

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2.罪人に対する三一の神の愛(ルカ第15章)

ルカ15:3–4 そこで、イエスはこのたとえを彼らに語って言われた、「あなたがたのうちに、百匹の羊を持っている者がいて、その一匹を失ったなら、九十九匹を荒野に残しておき、失ったその一匹を見つけるまで捜しに行かないだろうか?

15:8 また、ある女が銀貨を十枚持っていて、その一枚の銀貨を失ったなら、ともし火をともし、家を掃いて、それを見つけるまで念入りに捜さないだろうか?

15:11–24 イエスはまた言われた、「ある人に二人の息子がいた。その弟が父に、『お父さん、わたしのものになる財産の分け前を下さい』と言った。そこで、父は彼の身代を彼らに分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は、何もかもまとめて、遠い国へ旅立ち、そこで放蕩に生活して、財産を浪費した。彼がすべて使い果たした時、その国全体にひどい飢きんが起こり、彼は乏しくなり始めた。そこで彼は行って、その国の住民の一人に身を寄せた.その人は彼を自分の畑にやって、豚を飼わせた。彼は、豚が食べていたいなご豆で飢えを満たしたいとしきりに思ったが、だれも彼に何も与えなかった。彼は本心に立ち返って言った、『わたしの父が雇っている多くのしもべたちには、パンがあり余っているのに、自分はここで飢えて死のうとしている!立って父の所に帰り、こう言おう、「お父さん、わたしは天に対してもあなたの前でも、罪を犯しました。もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません.わたしを、あなたが2雇っているしもべの一人のようにしてください」』。<15:20>こうして彼は立って、父の所に帰って来た。ところが、彼がまだ遠く離れていたのに、父は彼を見て深くあわれみ、走り寄って彼の首を抱き、愛情を込めて口づけした。息子は言った、『お父さん、わたしは天に対しても、あなたの前でも、罪を犯しました.もう、あなたの息子と呼ばれる資格はありません』。しかし、父は奴隷たちに言った、『急いで、あの最上の衣を持って来て彼に着せ、手に指輪をはめ、足にサンダルをはかせなさい。また肥えた子牛を引いて来て、ほふりなさい.食べて楽しもうではないか.わたしのこの息子が1死んでいたのに生き返り、失われていたのに見つかったのだから』。こうして彼らは楽しみ始めた。

15:3ノート1 自分を義とするパリサイ人や聖書学者たちは、救い主が罪人と食事を共にされたことに対して、彼を罪定めしました。主は彼らに答えて、三つのたとえを語られました。それらは、神聖な三一がどのように働いて、その霊によって、御子を通して、御父へと罪人を連れ戻されるかを明らかにし、描き出しています。御子は、彼の人性の中で羊飼いとして来て、失われた一匹の羊である罪人を見つけ、家に連れて帰られました(4–7節)。その霊は、女が失われた一枚の貨幣を見つけるまで念入りに捜すように(8–10節)、罪人を捜されます。御父は、「ある人」が放蕩息子を受け入れるように、悔い改めて戻って来た罪人を受け入れられます(11–32節)。神聖な三一全体が、その罪人を尊び、彼を神に連れ戻すことに関与されます。三つのたとえはすべて、神聖な三一の愛を強調しており、悔い改めた罪人の堕落の状態や、彼の悔い改めのことにはあまり触れていません。神聖な愛は、良い羊飼いとしての御子のあわれみ深い顧みにおいて、宝を愛する者としてのその霊が細やかに捜し求めることにおいて、愛する父親としての御父が暖かく受け入れることにおいて、完全に現されています。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

15:20ノート3 暖かい愛のある歓迎。放蕩息子が御父に戻ったのは、その霊が捜し求めたことの結果です(8節)。御父が戻って来た子を受け入れることは、御子の贖いの中で、御子が見いだしたことに基づいていました(4節)。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

三つのたとえ

 これらの三つのたとえは、神が人を指し求める三重の絵を与えています。その最後のたとえは究極的なものです。失われた羊のたとえは、どのように羊飼いは九十九匹の羊を残しておいて、失われた一匹を捜しに行かれたかを告げています。これは、わたしたちのために願いを達成される良き羊飼いとしての御子の絵です。第二のたとえでは、女がともし火をともし、失われた銀貨を見いだすために家を掃いています。神に選ばれた罪人であるわたしたちは、銀貨です。わたしたちは神の所有でしたが、失われました。女は、わたしたちを見いだそうと、内なる部屋を照らすため送られた聖霊です。最後のたとえ、放蕩息子のたとえでは、父が記述され、父は帰ってくる罪人を受け入れてくださいます。
 その霊の照らす働きは御子の贖いの基礎に基づいています。ちょうど悔いて帰ってくる罪人を父が受け入れられるのは、その霊が捜し求めた結果であるのと同じようです。

(ウイットネス・リー, ライフメッセージ(ニ), 113)

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ルカによる福音書第十五章は、三つのたとえ話を記録しています。迷った羊を探す羊飼い、失われた銀貨を捜す女、放蕩息子を待つ父親です。主イエスは羊飼いとして来て、十字架上で死なれ、わたしたちを捜し出し、わたしたちを贖われました。キリストのみわざの後に聖霊は女として来て、わたしたちを照らし、わたしたちの心の中を探り、わたしたちを連れ戻されます。聖霊の捜す働きによって、わたしたちは悔い改め、わたしたちを喜んで受け入れてくださる父に立ち返りました。こうしてわたしたちは門を入ったのです。神格の三つのパースンは、わたしたちを建物そのものへともたらします。それらは地の四隅から来るだれに対しても入り口です。これは、コリント人への第二の手紙第十三章十四節で語られている三一の神の享受、すなわち神の愛、キリストの恵み、そして聖霊の交わりの中に入ることと一致します。

(ウイットネス・リー, 神の建造のビジョン,289)

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3.使徒行伝における三一の神

A. 主の名を呼び求める

使徒2:21 そして、主の御名を呼び求める者はすべて救われる』。

2:21ノート1 主の御名を呼び求めることは、新約で始まった新しい実行ではありません。それは創世記第4章26節(創4:26)で、人類の第三世代であるエノスから始まりました。それは続いてヨブ(ヨブ12:4.27:10)、アブラハム(創12:8.13:4.21:33)、イサク(創26:25)、モーセとイスラエルの子たち(申4:7)、サムソン(士15:18.16:28)、サムエル(サムエル上12:18.詩99:6)、ダビデ(サムエル下22:4、7.歴代上16:8.21:26.詩14:4.17:6.18:3、6.31:17.55:16.86:5、7.105:1.116:4、13、17.118:5.145:18)、詩篇の作者アサフ(詩80:18)、詩篇の作者ヘマン(詩88:9)、エリヤ(列王上18:24)、イザヤ(イザヤ12:4)、エレミヤ(哀3:55、57)、その他の人たち(詩99:6)によって行なわれました。彼らはみな旧約時代に、主の御名を呼び求めることを実行しました。またイザヤは神を追い求める者たちに、神を呼び求めるよう命じました(イザヤ55:6)。異邦人でさえ、イスラエルの預言者たちが常に神の御名を呼び求めたことを知っていました(ヨナ1:6.列王下5:11)。北から神によって起こされた異邦人も、彼の御名を呼び求めました(イザヤ41:25)。神の民が彼を呼び求めることは、神の戒めであり(詩50:15.エレミヤ29:12)、神の願いでした(詩91:15.ゼパニヤ3:9.ゼカリヤ13:9)。それは、神の救いの泉から飲む喜ばしい方法(イザヤ12:3–4)、神の中で自ら楽しむ(ヨブ27:10)、すなわち神を享受する喜ばしい方法です。ですから、神の民は、彼を日ごとに呼び求めなければなりません(詩88:9)。ヨエルが新約のヨベルについて預言したのは(ヨエル2:32)、そのようなヨベルの実行でした。
 新約聖書では、主の御名を呼び求めることは、ここで最初に、ペンテコステの日に、ペテロによってヨエルの予言の成就として述べられました。この成就は、彼の選びの民が彼の新約のヨベルにあずかるために、神が彼らの上にエコノミー的にすべてを含む霊を注がれたことと関係があります。ヨエルの預言と神の新約のヨベルのためのその成就には、二つの面があります。神の側では、復活したキリストの昇天の中で、彼の霊を注がれました。わたしたちの側では、昇天した主の御名を呼び求めます。主はすべてを成就し、すべてに到達し、すべてを獲得された方です。わたしたちキリストを信じる者が、すべてを含むキリストと、彼が成就し、到達し、獲得されたすべてとにあずかり、彼を享受するためには、主の御名を呼び求めることが決定的に必要です(Iコリント1:2)。神の新約エコノミーの中で、これは、わたしたちの全き救いのために、わたしたちが手順を経た三一の神を享受することができる主要な実行です(ローマ10:10–13)。初期の信者たちは、これを至る所で実行し(Iコリント1:2)、未信者たち、特に迫害者たちには、キリストを信じる者たちの目立つしるしとなりました(9:14、21)。ステパノは迫害を受けた時、主の御名を呼び求めました(7:59)。その実行は、彼を迫害したサウロに強い印象を与えたことでしょう(7:58–60.22:20)。やがて不信のサウロは、彼らが主の御名を呼び求めたことを目印にして、信者たちを迫害しました(9:14、21)。サウロが主に捕らえられた直後、彼をキリストのからだの交わりへともたらしたアナニヤは、主の御名を呼び求めてバプテスマされ、そのように呼び求める者となったことを人に示すようにと命じました。テモテへの第二の手紙第2章22節で、パウロはテモテにあてた言葉の中で、初期には主を追い求める者たちがすべて、そのように呼び求めるのを実行したことを示しました。パウロが若い同労者テモテに同じことを行なうよう命じたのですから、疑いもなくテモテもこれを実行した一人でした。それは、テモテが彼と同じように主を享受するためでした。
 「呼び求める」のギリシャ語は、「上に」と「(名を)呼ぶ」から成っています。ですから、それはステパノが行なったように、声を出して呼ぶ、大声で呼ぶことです(7:59–60)。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

使徒7:59 彼らがステパノを石打ちにしている時、ステパノは主を呼び求めて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください!」

使徒9:14 そして、彼はここでも祭司長たちから権限を受けて、あなたの御名を呼び求めるすべての者を縛ろうとしているのです」。

9:14ノート1 初期のころ、主の御名を呼び求めることが、主に従う者たちのしるしであったことを示しています(Iコリント1:2)。この呼び求めることは、人に聞こえるものであったに違いありません。ですから、それはしるしとなったのです。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

 主の御名を呼び求めることの定義

 第一に、わたしたちは、主の御名を呼び求めることの意義を学ぶ必要があります。あるクりスチャンは、主を呼び求めることは彼に祈ることと同じであると考えています。以前、わたしも同じ観念を抱いていました、いしかしながら、ある日、主はわたしに、彼の御名を呼び求めることはただ祈ることとは違うことを、示してくださいました。そうです、呼ぶことは一種の祈りです。なぜなら、それはわたしたちの祈りの部分であるからです。しかし、呼ぶことは単に祈ることではありません。呼ぶというヘプル語は、「呼び上げる」、「……へと叫ぶ」、すなわち、叫ぶことを意味します。ギリシャ語の呼ぶは、「人を呼び出す」、「名指しで人を呼ぶ」ことを意味します。言い換えれば、それは聞こえるように名前を言って人を呼ぶことです、祈りは黙ってでもよいのですが、呼ぶことは聞こえるものでなければなりません。
 主を呼び求めることはまた、彼に叫ぶ二と、霊的呼吸を経験することを意味します。「エホバよ、わたしは最も深い穴から、あなたの御名を呼びました。あなたはわたしの声を聞かれました。わたしの呼吸に、わたしの叫びに、耳をふさがないでください」(哀歌三・五五–五六)。これらの節は、呼ぶことはまた叫び、呼吸することであることを示しています。叫ぶことは最上の呼吸です。わたしは、叫ぶことは赤ん坊にとって最上の運動であると聞きました。あなたは叫ぶ時はいつも、自然に、深く呼吸します。呼び、呼吸することによって、吐き出し、吸い込みます。吸い込むことは、常に吐き出すことに続きます。吐き出すことによって、すべての否定的なものを吐き出します。あなたが否定的なものを吐き出す時はいつも、主の積極的なものがあなたを満たします。あなたがかんしゃくを起こすことを例に取りましよう。あなたがかんしゃくを起こしそうになった時、それを押さえつけようとしないで、「おお、主イエスよ」と呼びなさい。それから短い祈りを加えなさい。「主イエスよ、わたしはかんしゃくを起こしそうです」。これを行なっても、やはりかんしゃくを起こすかどうか見てください。主の御名を呼び求めることによって、あなたは自分のかんしゃくを吐き出し、、主イエスを吸い込むでしょう。あなたは自分のかんしゃくを吐き出し、主を吸い込みます。あなたは聖くなりたいでしょうか? 聖くなる方法は、主イエスの御名を呼び求めることです。彼の御名を呼び求めることによって、すべての罪深い、邪悪な、汚れたものは吐き出され、すべての積極的なもの、すなわち主の豊富が、あなたの中へと吸い込まれるでしょう。

(ウイットネス・リー, 旧約ライフスタディ 創世記(ニ), 151-152)

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どのように主を呼び求めるか

 今や、どのように主を呼び求めるかを考える必要があります。第一に、わたしたちは純粋な心から彼を呼び求めなければなりません(IIテモテ二・二二)。わたしたちの心は、源であって、純粋であり、主ご自身のほか何も求めてはなりません。第ニに、わたしたちは純粋な言語で呼ばなければなりません(セパニヤ三・九)。わたしたちは自分の言葉に注意する必要があります。なぜなら、ふしだらなおしゃべりほど、わたしたちの唇を汚すものはないからです。もしわたしたちの唇が、ふしだらなおしゃべりのゆえに純粋でないなら、主を呼び求めることは困難でしよう。純粋な心と純粋な唇と並んで、わたしたちは口を開く必要があります(詩篇八一・十、参照、七節」。わたしたちは口を大きく開いて、主を呼び求める必要があります。さらに、わたしたちは団体的に主を呼び求める必要があります。テモテヘの第二の手紙第二章二二節は、「ただし、あなたは若い時の欲から逃れなさい。そして純粋な心で主を呼び求める人たちと共に、義と信仰と愛と平和とを追い求めなさい」と言っています。わたしたちは主の御名を呼び求める目的で、共に集まる必要があります。詩篇第八八篇九節は、「主よ、わたしは日ごとにあなたを呼び求めました」と言います。ですから、わたしたちは日ごとに彼の御名を呼び求めるべきです。この主の御名を呼び求めることは教理ではありません。それはとても実行的なものです。わたしたちはそれを日ごと時間ごとに実行する必要があります。わたしたちは決して呼吸をやめるべきではありません。わたしたちはみな、呼吸をやめるとどうなるかを知っています。さらに、詩篇第百十六篇二節は、「それゆえ、わたしは生きる限り、主を呼び求める」と言っています。わたしたちは生きる限り、主の御名を呼び求めるべきです。わたしはさらに多くの主の民が、特に新しい人たちが、主の御名を呼び求めるこの実行を始めるようにと望みます。それを行なうなら、あなたはそれが主の豊富を享受する最上の道であることを見るでしょう。

(ウイットネス・リー, 旧約ライフスタディ 創世記(ニ), 166-167)

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B. 主の名の中へバプテスマされる

マタイ28:19 だから、行って、すべての国民を弟子とし、父と子と聖霊の名の中へと彼らをバプテスマして、

使徒8:16 というのは、聖霊がまだ彼らのうちのだれにも下っておらず、彼らは主イエスの御名の中へとバプテスマされただけであったからである。

使徒19:5 彼らはこれを聞いて、主イエスの御名の中へとバプテスマされた。

ガラテヤ3:27 なぜなら、キリストの中へとバプテスマされた者はみな、キリストを着たからです。

The resurrected Christ is the processed God. Before the incarnation He was the “raw” God, but now He has been fully processed. For God to be incarnated was a real process. For Him to live thirty-three and a half years on this earth, raised by a poor family, persecuted by religion, and finally crucified on a cross was also a real process. Then he passed through death and went into resurrection. By resurrection He was fully processed to become the life-giving Spirit.
  After He had been fully processed, the Lord came to the disciples and said, “All authority is given unto me in heaven and in earth. Go ye therefore, and disciple all nations, baptizing them into the name of the Father, and of the Son and of the Holy Spirit” (Matt. 28:18-19, Gk.). Today we must preach the gospel with such an authorization. We have been authorized to disciple the nations. Then we must baptize them into the name of the Triune God. In Galatians 3:27, Paul says that as many of you as have been baptized into Christ have put on Christ. If we compare this verse with Matthew 28:19, we can see that to be baptized into the Triune God is to be baptized into Christ. This Christ into Whom we have been baptized is the life-giving Spirit, and the life-giving Spirit is just the processed God for us to participate in. We all have been baptized into such a Christ.
  When I was young I tried to discover how I could get into Christ. The Bible told me that I was baptized into Christ and that I was in Christ. But I was also taught that after His resurrection, Christ ascended to the heavens. He was there, and I was here. How could I be in Him? I was told that it was through the Holy Spirit. But what does that mean? Then after years of studying the Word and experiencing Christ as life, we found the answer. Yes, Jesus is in the heavens, but both Ephesians 1:23 and 4:10 tell us that Christ today is filling all in all. The resurrected Christ fills the heavens and the surface of the earth. He is omnipresent. Now He is the all-inclusive, life-giving Spirit (2 Cor. 3:17). So we must be baptized into Him. This is why baptism should not be a formality, but a reality. When we baptize others, we must exercise our faith to realize that we are putting them into Christ, the life-giving Spirit, the Triune God.

“INTO” THE NAME

In Matthew 28:19 the Lord tells us to baptize the nations into the name of the Father, the Son, and the Holy Spirit. The Greek preposition translated “in” should be “into.” Therefore, we should baptize them into the name of the Father, the Son, and the Holy Spirit. To understand this, we must also read Galatians 3:27, “For as many of you as have been baptized into Christ have put on Christ.” By these two verses we can see that to be baptized into the name of the Father, the Son, and the Holy Spirit is equivalent to being baptized into Christ. The Father is in the Son, and the Son by resurrection became the life-giving Spirit. Therefore, today, if we touch the Spirit, we touch the Son. And when we have the Son, we have the Father. This is the Triune God.

(ウイットネス・リー, Stream Magazine, 1399-1400)

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本ページ及び本ページにリンクされている記事はChristian Web Sites掲載のWitness Lee: Quotes on the Triune Godに基づいて構成されています。本ページに掲載されている内容の無断転載を禁じます。掲載されている書物および回復訳聖書の抜粋はliving Stream Ministryに著作権があり、JGW日本福音書房から許可を受けて掲載しています。


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