第三章 子は三一の神の具体化である

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  1. 子は神である
  2. 子は父である
  3. 子の受肉は聖霊からである
  4. 子は父「から共に」来る
  5. 子は霊である
  6. 神たる方の全豊満は彼の中に住んでいる

1. 子は神である

イザヤ 9:6  ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 (新改訳)

マタイ1:21  彼女は男の子を産みます.あなたは彼の名をイエスと呼びなさい.彼は自分の民を、彼らの罪から救うからです」。

1:23  「見よ、処女が身ごもって男の子を産む.人々は彼の名をインマヌエルと呼ぶ」(インマヌエルは、神われらと共にいますと訳される)。

1:23ノート2  イエスは神によって与えられた名であり、インマヌエルは人によって呼ばれた名であって、「神われらと共にいます」を意味します。救い主イエスは、わたしたちと共におられる神です。彼は神であり、受肉してわたしたちの間に住まわれる神でもあります(ヨハネ1:14)。彼は神であるだけでなく、わたしたちと共におられる神でもあります。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

ヨハネ福1:1  初めに言があった.言は神と共にあった.言は神であった。

ヨハネ福20:28  トマスは彼に答えて、「わたしの主、わたしの神よ!」と言った。

ピリピ2:6  この方は、神の の中に存在されますが、神と等しくあるのを固守すべき尊いこととは 見なさず

2:6ノート2   神である有り様ではなく、神である表現であり(ヘブル1:3)、神のパースンの本質と性質と同一です。ですから、それらを表現します。これは、キリストの神格を言っています。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

2:6ノート3  主は神と等しかったのですが、彼は神と等しくあることを、固守すべき尊いこととは見なされませんでした。むしろ、彼は神の形(神の性質ではない)を脱ぎ、ご自身をむなしくして、奴隷の形を取られました。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

ヘブル1:8  御子については、「神よ、あなたの御座は永遠であり、あなたの王国の杖は公正の杖です。

彼は神である

 わたしたちはみな、まずキリストが神であるということには同意すると思います。イザヤ書第九章六節を読んでみましょう。これはすばらしい節です。「ひとりのみどりごが、わたしたちのために生まれる……彼の名は「…力ある神……』と呼ばれる」。みどりごが「力ある神」と呼ばれるとは、何と不思議なことでしょう! しかもこの二つは一つです! みどりごが力ある神なのです。わたしたちは、このことを信じることができるでしょうか。わたしたちの信じている神と、ヘブル人たちの信じている神との相違点はここです。彼らは神が唯一無二の神であり、力ある神であることを信じてはいますが、神がみどりごになられたことは信じません。しかし、このイザヤ書第九章六節で、聖書はみどりごが力ある神と呼ばれる、と言っています。このみどりごとは、言うまでもなくペツレヘムの飼葉おけの中でお生まれになったイエスです。ですから、イエス・キリストは神そのものです。

 ヨハネによる福音書第一章一節は、キリストが永遠から存在する神であることを明確に、はっきりと述べていますローマ人への手紙第九章五節は、キリストは万物の上にいます神、永遠にほむべきかたであると言っています。他の多くの節も共に、聖書は、わたしたちが救い主として受け入れたキリストは神ご自身であることを確証しています。「キリストの中には、神たる方の全豊満が肉体のかたちをもって住んでいる」(コロサイ二・九)のです。

(ウイットネス・リー, すべてを含むキリストの霊, 3-4)

 マタイによる福音書第一章二三節に、もう一つのすばらしい御名、インマヌエルがあります。イエスは神によって与えられた御名であり、インマヌエルは人によって呼ばれた御名です。インマヌエルは「神われらと共にいます」を意味します。救い主イエスは、わたしたちと共におられる神です。彼がなければ、わたしたちは神に会うことはできません。なぜなら、神は彼であり、彼は神であるからです。彼がなければ、わたしたちは神を見いだすことはできません。なぜなら、彼は受肉してわたしたちの間に住まわれる神ご自身であるからです(ヨハネ一・十四)。

 イエスは神であるだけでなく、わたしたちと共におられる神です。「われら」は救われた人々のことです。わたしたちがその「われら」です。日ごとに、わたしたちはインマヌエルを持ちます。マタイによる福音書第十八章二〇節でイエスは、二、三人が彼の御名の中へ集められる時はいつも、彼が彼らと共にいると言われました。これがインマヌエルです。わたしたちクリスチャンが共に集まる時はいつも、彼はわたしたちのただ中におられます。マタイによる福音書第二八章二〇節、この福音書の最後の節で、イエスは弟子たちに、「見よ、わたしはこの時代の満了まで、日々あなたがたと共にいる」と言われました。インマヌエルとしてのイエスは今日ここにおられます。マタイによる福音書によれば、イエスは来られ、決して去られませんでした。彼は三日間墓に葬られましたが、復活の中で来て、決して去られませんでした。彼はインマヌエルとして、わたしたちと共におられます。

 わたしたちがイエスを呼ぶ時、神がわたしたちと共におられるという感覚があります。わたしたちはイエスを呼びますが、神を持ちます。ときどき、わたしたちクリスチャンはかなり愚かです。イエスを呼び求めて、神を見いだします。しかも、イエスは神であるのだろうかと思います。イエスは神です! 彼は神であるだけではありません。彼はわたしたちと共にいます神です。イエスを呼ぶ時、わたしたちはエホバを持ち、救い主を持ち、わたしたちと共にいます神を持ちます。わたしたちは自分がいるその場で神を持ちます。

(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ マタイによる福音書(一), 94-95)

 ローマ人への手紙第九章五節は言います、「父祖たちも彼らのものであり、肉によれば、キリストは彼らから出られたのです。彼は万物の上にいまし、永遠にほめたたえられる神です。アーメン」。父祖たちとはアブラハム、イサク、ヤコブ、その他です。また、キリストも彼の人の性質によれば、イスラエルの子たちから出られました。パウロは、キリストは「万物の上にいまし、永遠にほめたたえられる神です」と言います。パウロは彼の文書でこの点に来た時、栄光あるキリストのパースンに満たされて、心の中にあったものを注ぎ出しました 。「キリストは万物の上にいまし、永遠にほめたたえられる神です。アーメン」。わたしたちはみな、わたしたちの主イエス・キリストが万物の上にいまし、永遠にほめたたえられる神であるという事実に深く印象づけられ、完全に認識し評価しなければなりません。彼は肉においてユダヤ人から生まれましたが、無限の神です。こうして、イザヤ書第九章六節は言います、「ひとりのみどりごが、わたしたちのために生まれる……彼の名は……力ある神……と呼ばれる」。わたしたちは彼の神性のゆえに彼を賛美し、神として永遠に礼拝します。

(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ ローマ人への手紙(一),363-364)

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2. 子は父である

イザヤ 9:6   ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。 (新改訳)

ヨハネ福14:7  あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたはずである.今からあなたがたは彼を知る.そしてすでに彼を見たのである」。

14:8  ピリポが彼に言った、「主よ、わたしたちに父を見せてください.そうすれば、わたしたちは満足します」。

14:9  イエスは彼に言われた、「ピリポよ、わたしがこんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、あなたはわたしを知らなかったのか? わたしを見た者は父を見たのである.どうしてあなたは、『わたしたちに父を見せてください』と言うのか?

14:10  わたしが父の中におり、父がわたしの中におられることを、あなたは信じないのか? わたしがあなたがたに語る言葉は、わたしが自分から語るのではない.わたしの中に住んでいる父が、ご自身のわざを行なっておられるのである。

14:11  わたしを信じなさい.わたしは父の中におり、父はわたしの中におられる.しかし、もし信じないなら、わざそのものによって信じなさい。

1ヨハネ2:22偽り者とはだれですか?  イエスがキリストであることを否定する者ではありませんか? 御父と御子を否定する者、これこそ反キリストです。

1ヨハネ2:23  すべて御子を否定する者は、御父をも持っていません.御子を告白する者は、御父をも持っています。

2:22ノート2 イエスがキリストであると告白することは、彼が神の御子であると告白することです(マタイ16:16.ヨハネ20:31)。ですから、イエスがキリストであることを否定するのは、御父と御子を否定することです。だれでもそのようにキリストの神聖なパースンを否定する者は、反キリストです。
 イエスがキリストであることを否定するのは、御父と御子を否定することです。これは、イエス、キリスト、御父、御子がすべて一である、という思想を示しています。それらすべては、すべてを含む、調合された、内住する霊の要素、成分です。その霊は今や、絶えず信者を油塗りします(20, 27節)。この油塗りに置いて、イエス、キリスト、御父、御子はすべて、わたしたちの中へ油塗られます。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

2:23ノート1 御子と御父とは一である以上(ヨハネ10:30.イザヤ9:6)、御子を否定することは御父のないことであり、また御子を告白することは御父を持っていることです。ここで御子を否定することは、キリストの神格を否定することであり、人なるイエスが神であることを否定することです。これは極めて大きな異端です。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

 イザヤ9章6節を見てみましょう。「ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は霊妙、助言者(カウンセラー)、大能の神、とこしえの父、平和の君ととなえられる」。

 このみどりごはだれですか。それはイエスです。このみどりごはどこで生れますか。ベツレヘムのかいばおけの中です。「ひとりの男の子がわれわれに与えられた」。この男の子とはだれですか。それはイエスです。彼はだれの子ですか。彼は神の子です。神はそのひとり子を賜うほどにこの世を愛して下さいました。ひとりのみどりごがわたしたちのために生れただけでなく、ひとりの男の子がわたしたちに与えられました。神はその男の子をわたしたちに与えて下さいました。どうして彼は霊妙と呼ばれるのでしょう。なぜなら彼は単純ではないからです。彼を理解することは容易ではありません。また、完全に理解することはわたしたちにはできないのです。彼は霊妙です。このベツレヘムのかいばおけの中で生れたイエスという名のみどりごはまた、大能の神とも呼ばれます。あなたはこれを信じますか。ユダヤの人々は信じません。彼らはあの小さなイエスが大能の神であることを信じません。もし信じたとしたら、彼らは直ちに真のクリスチャンになることでしょうが。わたしはそれを信じます! わたしの神はイエスです! わたしの神はあの小さなみどりごです。マリヤから 生まれた、ベツレヘムのあのかいばおけの中の、あの小さなみどりごはわたしの大能の神です! 彼の第4番目の名、または称号はとこしえの父です。わたしたちに与えられたひとりの男の子は「とこしえの父」と呼ばれます。彼は男の子ですか、それとも父ですか。もしあなたが、わたしたちのために生まれたみどりごが大能の神であることを信じるなら、あなたは、わたしたちに与えられた男の子はとこしえの父であることをまた信じなければなりません。男の子は父であると言うのは、神の純粋な言葉によります。

 さて、ヨハネによる福音書14章8–9節にもどって下さい、「ピリポはイエスに言った、『主よ、わたしたちに父を示してください。そうして下されば、わたしたちは満足します』。イエスは彼に言われた、『ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか』」。この言葉は、み子はみ父であることをはっきりと示しています。しかしある人たちはこの言葉をねじ曲げて、み子はみ父ではなく、み父の代理者だと言っています。もし、少しもねじ曲げないで、その前後関係を読むなら、み子がそこではみ父であったことを悟ることができます。ピリポはみ子にみ父を示して下さるよう、求めました。み子は驚いて言われました、「わたしはこんなに長くあなたがたと一緒におり、そしてあなたがたはわたしを見てきました。あなたがたはわたしを見てきたからには、父を見てきたのです」。ここでわたしたちはピリポに言っていいわけです、「あなたはイザヤ書を読んだことがないのですか、そこでは子は父であると言っています。彼がここにおられるのに、ど うしてあなたは彼に父を示してくださいと求めるのですか。彼は父なのです」。それでイエスは言われました、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)。
(ウイットネス・リー, 純粋な聖書の言葉による、三で一の神の啓示,22,24,26)

 The following is a quotation taped at a meeting of some people who were discussing how to deal with our so-called heresy. In their conversation this was said: “…Anyway, Isaiah 9:6, For unto us a child is born, unto us a Son is given: and the government shall be upon His shoulders and His name shall be called Wonderful, Counsellor, the Prince of Peace, the Mighty God, the Everlasting Father. There Jesus is called the Father. Right? So He’s the Father. That’s what it says. That’s Isaiah 9:6. Now we don’t normally say this because tradition is involved here.” Please notice this. These critics admit that for fear of their tradition, they normally do not say that Jesus is the Father. They dare not speak the truth, yet they turn their attack upon us. Are we for traditions? Do you care for traditions? In every Christian’s conscience and mind, he must admit that in Isaiah 9:6, Jesus is the Father, even though they do not normally say this because it involves the matter of tradition.

 Some, however, have twisted this verse, saying, “The son is called the Father, but He is not the Father.” This is ridiculous! You are called by a certain name, yet you are not that person! Once a certain man said to me, “This Father here is not God the Father. He is the Father that brought forth the race of Israel.” I said, “Don’t say this. Here it does not say the “Father of Israel” it says, “the Father of eternity. “ If you say that the Son who is called the Father is not the Father, then you must also admit that the child who is called the Mighty God is not the Mighty God. But certainly the child is the Mighty God. Thus, as long as you admit the one, you must recognize the other.” No sober mind would deny this.

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子は父である

 イザヤ書第九章六節は言います、「ひとりのみどりごが、わたしたちのために生まれる。ひとりの男の子が、わたしたちに与えられる。……そして彼の名は『……力ある神、永遠の父……』と呼ばれる」。この節において、「力ある神」は「みどりご」と一致し、「永遠の父」は「男の子」と表します。そうです、彼はみどりごですが、力ある神です。ベツレヘムの飼葉桶に生まれたみどりごは、力ある神でした。みどりごと力ある神は一ですから、男の子と永遠の父も一です。男の子は永遠の父です。この事を十分に説明することは確かに困難です。しかし、聖書はそのように述べています。「ひとりの男の子が、わたしたちに与えられる。……そして彼の名は『…・‥永遠の父……』と呼ばれる」。これは、御子が御父であることを明白に言っているのではないでしょうか?もし御子が御父でなければ、どうして男の子が「父」と呼ばれることができるでしょうか?もしわたしたちが、この節の語っている「みどりご」が「カある神」であることを認めるなら、この節の語っている「男の子」が「永遠の父」でもあることを認めなければなりません。そうでなければ、わたしたちは聖書がはっきりと述べている啓示を信じていないのです。しかし、わたしたちは深く信じていますが、ここの言葉によれば、みどりごとなった主イエスは力ある神です。また、男の子である主イエスは永遠の父でもあります。わたしたちの主は男の子であり、また彼は御父でもあります。ハレルヤ!

 ヨハネによる福音書第十四章七節から十一節は言います、「『あなたがたがわたしを知っていたなら、わたしの父をも知っていたはずである。今からあなたがたは彼を知る。そしてすでに彼を見たのである』。ピリポが彼に言った、『主よ、わたしたちに父を見せてください、。そうすれば、わたしたちは満足します』。イエスは彼に言われた、『ピリポよ、わたしがこんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、あなたはわたしを知らなかったのか? わたしを見た者は父を見たのである。どうしてあなたは、「わたしたちに父を見せてください」と言うのか? わたしが父の中におり、父がわたしの中におられることを、あなたは信じないのか? わたしがあなたがたに語る言葉は、わたしが自分から語るのではない。わたしの中に住んでいる父が、ご自身のわざを行なっておられるのである。わたしを信じなさい。わたしは父の中におり、父はわたしの中におられる。しかし、もし信じないなら、わざそのものによって信じなさい』」。これらの節の中で主は、彼と御父が一であるという奥義をわたしたちにはっきりと啓示しています。彼は御父の中におられ、御父は彼の中におられます。彼が語られる時、それはみわざをなさる御父です。人は彼を見る時、御父を見ます。人は彼を知る時、御父を知ります。なぜなら、彼は御父であり、彼「と父は一である」からです(ヨハネ十・三〇)。

(ウイットネス・リー, 三一の神 すなわち、父、子、霊に関して,22)

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祈る御子は、聞く御父である

 ある人たちは次のような質問をするかもしれません、「ヨハネによる福音書第十七章において、主イエスは御父に祈っておられました。もしあなたが、御子は御父であると言うなら、どうして御子が御父に祈ることができるのでしょうか?」。これは説明するのは難しくありません。出エジプト記第三章二節から十二節の部分の前半において、モーセに現れたのは「主の使い」であったと、はっきりと述べています。しかし後で、彼は「主」であったと述べています。ほとんどの聖書解説者たちは、ここの「主の使い」はキリスト、すなわち、三一の神の第二のパースンであると言います。これは正しいです。しかし、六節では、彼は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」であると言います。わたしたちはすでに指摘しましたが、アプラハムの神との関連では、主要な強調点は、彼が御父であるということです。イサクの神については、主要な強調点は、彼が御子であるということです。ヤコブの神については、主要な強調点は、彼がその霊であるということです。ですから、彼は三一の神の第二のパースンであるだけでなく、神全体でもあります。彼は第一のパースン、御父です。彼は第二のパースン、御子です。彼はまた第三のパースン、その霊でもあります。この主の使いは、三一の神そのものです。三一の神は、使いを遣わした方であり、また遣わされた使いでもあります。

 遣わした主は、遣わされた使いです。遣わす方と遣わされた方とは、一です土師記第六章十一節から二四節と第十三章十五節から二四節もやはり、主の使い(もちろん、これもキリストを指しています)が主ご自身であることを啓示しています。ゼカリヤ書第十二章八節後半は、「主の使い」が主なる「神」であることを証明しています。これが意味することは、主なる神がご自身を遣わして、ご自身の使いとならせたということです。もしわたしたちがこの原則を理解するなら、御子が御父であるのに、御子が御父に祈ることができたということに関して、もはや疑問はなくなるでしょう。祈っておられる方と祈りを聞いておられる方、祈っておられる御子と聞いておられる御父は、一です。

 さらにまた、ゼカリヤ章第二章八節から十一節もこの点を証明しています。「万軍のエホバがこう仰せられるからだ、『栄光の後に、……彼はわたしを遣わされた。……わたしは今、彼らの上にわたしの手を振っている。……そしてあなたがたは、万軍のエホバがわたしを遣わされたことを知るであろう。……今わたしは来て、あなたのただ中に住む、とエホバは言われる。その日、多くの諸国民がエホバにつき、わたしの民となる。そしてわたしは、あなたのただ中に住む、あなたは、万軍のエホバがわたしをあなたに遣わされたことを知るであろう』」。この部分は「万軍のエホバ」によって語られましたが(八節)、この部分において万軍のエホバは、「万軍のエホバがわたしを遣わされた」と言われました(九、十二節)。これが意味することは、万軍のエホバを遣わしたのは万軍のエホバであったということです。こういうわけで、八節は言います、「万軍のエホバがこう仰せられるからだ、『……彼はわたしを遣わされたと。実際、だれがだれを遣わしたのでしょうか? 「彼」とはだれでしょうか? 「わたし」とはだれでしょうか? わたしたちがどのようにそれを読んだとしても、わたしたちははっきりしません。聖書の(中国語訳の)翻訳者たちでさえ、結論に達することができませんでした。こういうわけで、ある個所では「彼」と訳され、そこに「わたし」と述べている注釈がついています。別の個所では「わたし」と訳され、そこに「あるいは、彼である」と述べている注釈がついています。「彼」は「わたし」であり、「わたし」は「彼」であるのですから、万軍のエホバは「彼」であり、万軍のエホバは「わたし」でもあるのです。万軍のエホバは、遣わす方であり、また遣わされる方です。万軍のエホバは遣わす方であり、また遣わされる方でもあるので、主が、祈っておられる御子であり、また祈りを聞いておられる御父でもあるということが、どうしてあり得ないでしょうか? 祈りを聞いておられる御父は、祈っておられる御子です。そして、祈っておられる御子は、祈りを聞いておられる御父でもあります。アンドリュー・マーレーは言いましたが、最上の祈りとは、わたしたちの中に住んでおられるキリストが、天の御座に着いておられるキリストに祈る祈りです。祈っておられる方と、祈りを聞いておられる方は、ひとりのキリストです。

 この事を教理において十分に説明することは困難ですが、わたしたちの経験においては確かにこうです。わたしのクリスチャン生活の最初のころ、わたしは祈る時はいつも、一般的な観念にしたがって、天の主に祈りました。しかし、しばらくの後、天におられる主がわたしの中に入ってきて、わたしの中に住まわれたかのようでした。その時わたしは、主が天におられてわたしの言う事を聞いておられるのか、それともわたしの中に内住して、わたしと共に祈っておられるのか、わかりませんでした。もちろん、わたしが祈るのを助けていたのは、わたしの中の聖霊であったと言うことができます(ローマ八・二六)。しかし実は、わたしの中でわたしが祈るのを助けていたこの聖霊は、天におられる主でもあるのです。ですから、わたしの中で祈っておられる方は、天でわたしの言う事を聞いておられる方なのです。二者は同一のものです。

 ローマ人への手紙第八章は、一方において、主が今日、天におられることを述べています(三四節)。しかし他方において、主がわたしたちの中におられることも述べています(十節)。これは今日、すでにその霊と成られた主に関してそう言えるだけではありません。主が肉体の中にあった時でさえ、そうでした。その時、主はニコデモに、彼が「天から下って来た」方であり、また「天にいる」方であると告げられました(ヨハネ三・十三)。ですから、彼がヨハネによる福音書第十七章で祈られた時、彼は地上にいましたが、同時に天にもいました。彼は、地上で祈っておられた方であり、同時に天で祈りを聞いておられた方でもありました。

(ウイットネス・リー, 三一の神 すなわち、父、子、霊に関して, 30-34)

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3. 子の受肉は聖霊からである

マタイ1:18 さて、イエス・キリストの由来はこうであった.彼の母マリヤは、ヨセフと婚約していたが、彼らが一緒になる前に、聖霊から身ごもっていることが見いだされた。

マタイ1:20 彼がこれらのことを思い巡らしていると、見よ、主の御使いが夢の中で彼に現れて言った、「ダビデの子、ヨセフよ、マリヤをあなたの妻にすることを恐れてはなりません.彼女の中に生まれたのは、聖霊からです。

1:18ノート1 文字どおりには、から出て。キリストはマリヤから生まれたのですが(16節)、彼は聖霊からの子でした。キリストの誕生は、聖霊からの直接的なものでした(20節)。彼の源は聖霊であり、彼の要素は神性です。彼は処女マリヤを通して、肉と血である人性を着て、肉の様(ローマ8:3)、人の姿(ピリピ2:7)を取られました。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

ルカ 1:35  御使いは彼女に答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたを覆うでしょう.それゆえ、生まれる聖なる者は、神の子と呼ばれます。

1:35ノート2  変貌の山で(マタイ17:5)、また幕屋の上で(出40:34,38)、雲が覆ったように。この節によれば、聖霊は、マリヤに聖なる子供を身ごもらせる力として、彼女の上に臨んだだけのように見えます。ところが、マタイによる福音書第1章18節と20節は、「マリヤは・・・・聖霊から身ごもっていることが見いだされた」、「彼女の中に生まれたのは、聖霊からです」と告げています。これは、マリヤがその子イエスを産む前に、聖霊からの神聖な本質が、彼女の体内に生まれたことを示します。人の処女における、聖霊からのそのような受胎は、神聖な本質と人の本質の両方をもって達成され、神聖な性質と人の性質との混ざり合いを構成します。この受胎は、第三の性質を生み出すことなく、神聖な性質と人の性質を持っている、全体的な神であり完全な人でもある方、神・人を生み出しました。これが、エホバ救い主、イエスの最高にすばらしい、卓越したパースンです。バプテスマのヨハネの受胎と、救い主イエスの受胎とでは、その本質において著しい違いがありました。バプテスマのヨハネの受胎は、年を取った人の本質によって成就された神の奇跡でした。そこには神聖な本質はなく、ただ神聖な力だけで行なわれたものであり、彼は単なる人で、神の霊で満たされてはいましたが(15節)、神の性質は持っていませんでした。ところが、救い主の受胎は神の受肉であり(ヨハネ1:14)、神聖な力によるだけでなく、神聖な本質が人の本質に加えられたものから構成されており、神性と人性の二つの性質を持つ神・人を生み出したのです。受胎を通して、神はご自身を人性に結合されました。それは、彼が肉体において現され(Iテモテ3:16)、人-救い主となるためでした(2:11)。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

1:35ノート3 その受胎が聖霊からであったように、この受胎から生まれたものは聖なる者、本質的に聖でした。これが、わたしたちの救い主イエスです。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

人-救い主 神聖な本質をもって聖霊から受胎された

 わたしたちは主イエスが人-救い主であることを見る必要があります。人-救い主として、彼は神聖な本質をもって聖霊から受胎されました。他の伝記とは違い、ルカはその生涯を記録しているかたの受胎を記録しています。他の伝記はその人の誕生から語るでしょうが、その受胎からではありません。この事ではルカはユニークです。彼はわたしたちに人-救い主はどのように受胎されたかを告げます。彼は人から受胎されたのではありません。彼は神聖な本質をもって聖霊から受胎されました。

 聖霊は人にまで届く神ご自身です。これは神が人に届くとき、彼は聖霊であることを意味します。人-救い主の受胎をもって、聖霊は人間性の中に入られたのです。

 人-救い主は神聖な本質をもって聖霊から受胎されたことを指摘しました。ここでわたしたちが一つの強い意味で「本質」という語を用いているのは、性質よりもさらにー層本質的な何かを示すためです。本質はある実質の内在的な構成要素です。人-救い主は、神聖な性質だけでなく、神聖な本質を持って聖霊から受胎されたのです。わたしたちがこの事柄を見ることは極めて重要です。

(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ ルカによる福音書(1), 7-8)

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4.子は父「から共に」来る

ヨハネ福 1:14  そして言は肉体と成って、わたしたちの間に幕屋を張られた.わたしたちは彼の栄光を見た.それは、父からのひとり子としての栄光であって、恵みと実際に満ちていた。

1:14 ノート4   これは、山の上でのキリストの変貌を言っています(マタイ17:1–2、5.ルカ9:32.IIペテロ1:16–18)。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

ヨハネ福 6:46 父を見た者はだれもいない.ただ神から来た者、彼が父を見たのである。

6:46ノート1  ギリシャ語は「パラ(para)」で、「そばに」を意味し、「共に」の意味を含んでいます。ですから、文字どおりには、「から共に(from with)」です。御子は神からであるだけでなく、神と共におられます。一方で、彼は神からであり、もう一方で、彼はなおも神と共におられます(8:16後半、29.16:32後半)。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

ヨハネ福 8:16  たとえわたしが裁くとしても、わたしの裁きは真実である.なぜなら、わたしは一人ではなく、わたしを遣わされた父が、わたしと共におられるからである。

ヨハネ福 16:27 なぜなら、あなたがたがわたしを愛し、わたしが神から出て来たことを信じたので、父ご自身が、あなたがたを愛されるからである。

16:27ノート1 ギリシャ語は「パラ(para)」で、「そばに」を意味し、「共に」の意味を含んでいます。ですから、文字どおりには、「から共に(from with)」です。御子は神からであるだけでなく、神と共におられます。一方で、彼は神からであり、もう一方で、彼はなおも神と共におられます(8:16後半、29.16:32後半)。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

  

御子と共に来る

 御父は御子を遣わされました。そして御父は御子と共にに来られました(ヨハネ十七・八とノート)。わたしたちはこれを説明する能力を持っていません。一般的には、わたしがあなたを遣わすとき、あなたはわたしに代わって行き、わたしは家にとどまっています。しかし、御父が御子を遣わされたときは、そのようではありませんでした。神父が御子を遣わされたとき、御父は御子と共に来られました。ギリシャ語のパラ(para)という前置詞は、「から」(from)を意味するだけではなく、「から共に」(from with)を意味します。J・N・ダービーは、ヨハネによる福音書第六章四六節についての彼の注解で、パラは「から共に」を意味すると言っています。これは、御子が来られたとき、御子が御父と共に来られたことを意味します。御父は御子を遣わされました。そして御父は御子と共に来られました。ヨハネによる福音書第十六章三二節で主イエスは、「見よ、あなたがたがそれぞれ自分の所へ散らされて、わたしを独り残す時が来ようとしており、そしてすでに来ている。しかし、わたしは独りではない。父がわたしと共ににおられるからである」と言われました。ここで主ははっきりと、彼が一人ではないことを語られました。主は前にも同じような言葉を第八章二九節で語られました、「わたしを遣わされた方は、わたしと共におられる。彼はわたしを独りにしておかれない。わたしはいつも、彼に喜ばれる事を行なっているからである」。

(ウイットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上),176-177)

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御子は御父から分けることはできない

 御父を御子から離そうとしたり、御子を御父から離そうとしたりしてはなりません。新約聖書は御子がここにおられるとき、御父は彼と共におられることを啓示しています。その霊がこられることは御子がこられることであり、御子は常に御父と共にこられるのです。ヨハネによる福普書第六章四十六節では「神から出た者のほかに、だれかが父を見たのではない。その者だけが父を見たのである」。「から」(from)と訳されたギリシャ語の前置詞はパラ(para)です。ここの前置詞の意味は「~と共に~から」(from with)です。主は神からだけではなく、神と共にあります〈ヨハネ八・一六、二九、十六・三ニ)。主はこれらの節で「わたしは父から、父と共にに来ます。わたしが父から来るとき、彼と共に来るのです」と言っておられるかのようです。これは御子がこられるとき、御父が共におられることを意味します。御子が御父によってつかわされただけでなく、御父と共につかわされたのです。御父が御子をつかわされたとき、御父は御子と共にこられたのです。こういうわけで、わたしたちは御子を受け入れるとき、御父を受け入れるのです。

(ウイットネス・リー,その霊とからだ, 55)

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5.子は霊である

ヨハネ福 14:16 わたしは父にお願いしよう.そうすれば、彼はあなたがたに別の慰め主を与えて、いつまでも、あなたがたと共にいるようにしてくださる.

ヨハネ福 14:17 それは実際の霊である.世はその方を受けることができない.それは、世が彼を見ないし、知りもしないからである.しかし、あなたがたは彼を知っている. はあなたがたと共に住んでおり、あなたがたの中におられるようになるからである。

ヨハネ福 14:18 わたしは、あなたがたをみなしごのままにはしておかない.わたしはあなたがたに来る。

ヨハネ福 14:19 もうしばらくすると、世はもはやわたしを見ない.しかし、あなたがたはわたしを見る.わたしが生きているので、あなたがたも生きるようになる。

14:17ノート2、14:18ノート1 この節の実際の霊である「彼」こそ、18節の主ご自身である「わたし」となられます。これは、肉体にあったキリストが、死と復活を経過して、命を与える霊、霊である(ニューマ的)キリストと成られたことを意味します。コリント人への第一の手紙第15章45節は、これを確証します。この節は復活の事柄を取り扱って、「最後のアダム(肉体にあるキリスト)は命を与える霊と成った」と言っています。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

1コリント 15:45  そこで、「最初の人、アダムは、生きた魂と成った」と書かれていますが、最後のアダムは、命を与える霊と成ったのです。

2コリント 3:17 そしてはその霊です.そして主の霊のあるところには、自由があります。

2コリント 3:18 しかし、わたしたちはみな、おおいのない顔をもって、鏡のように主の栄光を見つめつつ映しつつ、栄光から栄光へ、主と同じかたちへと造り変えられていきますが、それはまさに11霊なる主からです。

3:17 ノート2  第2章12節に始まるこの区分の文脈によれば、ここの「主」は、主なるキリストのことを言っているはずです(2:12,14–15,17.3:3–4,14,16.4:5)。ですから、これは、キリストがその霊であることを強調している聖書の中の強い言葉です。「16節の主なるキリストは、その霊であって、新契約を浸透し、それを活気づける。わたしたちは、その新契約の奉仕者である(6節)。そしてその奉仕の務めは、栄光を帯びている(8節)。ローマ8:9–11.ヨハネ14:16,18を参照」(ビンセント)。「16節の主は、6節の人に命を与えるその霊である。これは、『キリスト』、『その霊である』と言われている『主』は、聖霊ご自身であることを意味する・・・・ここのキリストは、キリストの霊である」(アルフォード)。「造り変え内住する霊のすべてはキリストご自身である。『主はその霊である』」(ウイリストン・ウォーカー)。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

3:18ノート11 「霊なる主」は、父なる神や、主なるキリストのような複合名称と考えられます。この表現は、主なるキリストはその霊であり、その霊は主なるキリストであることを、強く証明し、確認するもう一つの箇所です。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

There is only one way for the Lord to be our life: that is in the Spirit. If He were not the Spirit, He could not come into us to be our life and our life supply. This is what the Lord teaches us in John chapters 14 to 17. In these four chapters, the main emphasis is the transition of the Lord from the flesh to the Spirit through death and resurrection. He must change in form from the flesh to the Spirit by being put to death and resurrected. He said in John 6:63, “It is the Spirit that giveth life; the flesh profits nothing” (A.S.V.). As long as He is in the flesh and not in the Spirit, He could never come into us to give us life. Through death and resurrection He was transformed from the flesh to the Spirit. So, after His resurrection, He came to His disciples and breathed on them saying, “Receive ye the Holy Spirit” (John 20:22). This signifies that He was received into the disciples as the Holy Spirit—the divine breath.

(ウイットネス・リー, Baptism, 3-4)
参考文献

 コリント人への第二の手紙第三章十七節は言います、「主はその霊です」。ここで語られている「主」は、もちろん、主イエスです。そして「その霊」は、もちろん、聖霊です。これは、主イエスが聖霊であることを、はっきりと、また明確に告げていないでしょうか? わたしたちの主は聖霊です。彼は御父であり、またその霊でもあります。彼はすべてです!

 多くの兄弟姉妹は、ダービーの「新訳」の聖書を持っています。ダービーは、十九世紀において聖書について最も多くの知識を持っていた人と考えられています。ある人たちは彼のことを解釈の王と呼びました。新約聖書の「新訳」において、彼は、コリント人への第二の手紙第三章十七節に先立つ七節から十六節までの節を挿入句として、十七節は直接、六節に続くことを指摘しました。六節の後半は、「その霊は人に命を与えるからです」と言います。ですから、ダービーの認識によれば、十七節の「主はその霊です」は、主が六節に述べられている命を与えるあの霊であり、命を与えるこの霊は、もちろん、聖霊であるということです。ですから、このことは、主イエスが聖霊であることをダービーが認めていたことを証明します。

 多くの兄弟姉妹は、ダービーの「新訳」の聖書を持っています。ダービーは、十九世紀において聖書について最も多くの知識を持っていた人と考えられています。ある人たちは彼のことを解釈の王と呼びました。新約聖書の「新訳」において、彼は、コリント人への第二の手紙第三章十七節に先立つ七節から十六節までの節を挿入句として、十七節は直接、六節に続くことを指摘しました。六節の後半は、「その霊は人に命を与えるからです」と言います。ですから、ダービーの認識によれば、十七節の「主はその霊です」は、主が六節に述べられている命を与えるあの霊であり、命を与えるこの霊は、もちろん、聖霊であるということです。ですから、このことは、主イエスが聖霊であることをダービーが認めていたことを証明します。

 ダービー以外にも、わたしたちの認識によれば、次の人たちも彼らの著書において、コリント人への第二の手紙第三章十七節に基づいて、主イエスが聖霊であることを認めていました。

 一 アンドリュー・マーレーは、彼の著書である「キリストの御霊」の第二五章で次のように述べています、「わたしたちの主イエスが高く上げられて、その霊の命と成られた時、彼は『霊なる主』に成られました。……弟子たちはイエスを長く知っていましたが、霊なる主としての彼を知りませんでした。……務めにおいて、主イエスを十字架に付けられた方として宣ペ伝える熱心な福音伝道は多くありますが、彼のことを霊なる主として宣べ伝えていません。……霊なる主としてのキリストについての認識や承認、またキリストの霊についての認識や承認は、信者たちを変えて、彼の様へともたらし、召会の生活へともたらし、信者たちの間の務めが、命と力のあるものとなり、行為そのものにおいてその霊の務めとなるようにします」。

 二 ヘンリー・アルフォード(新約のギリシャ語の意味に関する権威)は、「英語読者のための新約聖書」(The New Testament for English Readers)の第二巻の二六五ページで次のように言っています、「ここ(IIコリント三・十七)で語られている『主』、『キリスト』、『その霊です』は、聖霊と同一です。……ここの『キリスト』は、キリストの『霊です』」。

 三 マービン・R・ビンセントは、彼の「新約における語彙研究」の第三巻の三〇八ページで次のように言っています、「十六節の主なるキリストは、新契約に浸透して生命を吹き込むその霊です」。

 四 J・オズワルド・サンダースは、彼の「霊的円熟」(Moody Press刊)の一四四ページで次のように言っています、「ウィリアム・バークレーのコメント:パウロは、復活した主と聖霊を同一視しているようです。わたしたちは覚えておかなければなりませんが、パウロは神学を著していたのではなく、経験を書き留めていたのです。クリスチャン生活の経験によれば、その霊の働きと復活した主の働きは一であり、同じです。わたしたちが受ける力、光、導きは、その霊から、また復活した主から、同じようにやって来ます。わたしたちがそれを経験してさえいれば、それをどのように表現するかはあまり重要ではありません」。

 コリント人への第二の手紙第三章の啓示から、主がその霊であることを見たのは、わたしたちだけではありません。霊的な人たちの多くもそれを見ました。今日、復活した主であるキリストは、命を与える霊です。こういうわけで、使徒パウロは彼を「霊なる主」と呼びました(IIコリント三・十八)。彼は主であるだけでなく、霊なる主でもあります。

 なおまた、コリント人への第一の手紙第十五章四五節は、「最後のアダムは、命を与える霊と成ったのです」と述べています。最後のアダムは、もちろん、受肉した主イエスであり、命を与える霊は、もちろん、聖霊です。聖霊以外に、別の命を与える霊があるわけでは決してありません。ですから、この節も、主イエスが聖霊であることをはっきりと告げています。主は肉体と成られ、最後のアダムとなり、その後、死と復活の後、命を与える霊と成りました。ヨハネによる福音書第十四章十六節から二〇節で主によって語られた言葉も、この点を確証します。ここで主はわたしたちに告げていますが、彼は死と復活を経過して、別の慰め主、すなわち、実際の霊となり、やって来て、わたしたちと共に住み、わたしたちの中に内住するのです。十七節で主は、実際の霊が「あなたがたと共に住んでおり、あなたがたの中におられるようになる」と言います。それから十八節で主は、「わたしは、あなたがたをみなしごのままにはしておかない。わたしはあなたがたに来る」と言います。三十年以上前、上海において、ウオッチマン・ニー兄弟がこの部分をわたしたちに説明していた時、十七節の「彼」(聖霊)は、十八節の「わたし」(主)であることを、強調して指摘しました。主は事実上、次のように言っておられたのです、「彼が来る時、わたしが来ます。彼はわたしであり、わたしは彼です」。聖霊は主イエスであり、主イエスは聖霊です。同様に、十七節で主は「実際の霊……は……あなたがたの中におられるようになる」と言い、それから二〇節で主は「わたしがあなたがたの中にいる」と言います。これもやはり、わたしたちの中におられる聖霊が、死んで復活して今やわたしたちの中に住んでおられる主であることを証明しています。

(ウイットネス・リー, 三一の神 すなわち、父、子、霊に関して,23-27)

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6. 神たる方の全豊満は彼の中に住んでいる

コロサイ 1:19  なぜなら、御子の中に、全豊満は住むことを喜ばれ、

1:19ノート2  「豊満」という言葉に修飾語がないのは、この豊満が唯一の豊満であることを示しています。それは、神が何であられるかの豊富ではなく、それらの豊富の表現を意味します。被造物と召会の両方での、神である豊富の完全な表現は、キリストの中に宿っています。全被造物と召会全体は、神の豊富の表現としてのキリストで満たされています。そのような豊満は、これを喜びます。これは、キリストにとって喜びです。
 この節の豊満は、15節の神のかたち、すなわち、生けるパースンであるキリストを言います。そのような豊満は、神の表現の中に住むことを喜ばれ、万物を神の表現に和解させることを喜ばれます。(ウイットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

コロサイ 2:9  なぜなら、キリストの中には、神たる方の全豊満が肉体のかたちをもって住んでいるからです.

神たる方の豊満の具体化

 神の奥義として、キリストはまた神たる方の豊満の具体化です。第一章十九節でパウロは、「なぜなら、御子の中に、全豊満は住むことを喜ばれ」と言います。次に第二章九節で彼は、「なぜなら、キリストの中には、神たる方の全豊満が肉体のかたちをもって住んでいるからです」と言います。これらの節の豊満は、神の豊富を指しているのではなく、神の豊富の表現を指しているのです。キリストの中に住んでいるのは神たる方の豊富だけではなく、神が何であるかの豊富の表現です。神たる方の豊満は神たる方の表現、すなわち、神が何であるかの表現であることを見るのは重要です。神たる方は、旧創造(宇宙)の中と、新創造(召会)の中で表現されます。第一章十九節と第二章九節の両方で、パウロは「全」という言葉を使って豊満を記述していることに注意してください。全豊満、全表現は、旧創造の中と新創造の中にあります。

 第二章九節の神たる方という言葉は神格を指しており、ローマ人への手紙第一章二〇節の神性とは異なります。この神格は、キリストの神格を強く示しています。そのような神格は神たる方の豊満と共に、人々の伝統やこの世の初歩的教えに相対します。この世の伝統や初歩的教えは、神たる方の豊満とは比べようもありません。

 第一章十九節と第二章九節に、全豊満の二つの面を見ます。第一章十九節によれば、全豊満はキリストの中に住むことを喜ばれました。第二章九節によれば、全豊満はキリストの中に肉体のかたちをもって住んでいます。これは、キリストが彼の人性の中で着られた肉の体を意味します。それは、神たる方の全豊満が、人の体を持つ方としてのキリストの中に住んでおられることを示します。受肉の前、神たる方の豊満は、永遠の言葉としての彼の中に住んでいましたが、それは肉体のかたちをもって住んだのではありません。受肉し、人の体を着てから、神たる方の豊満は、肉体のかたちをもって彼の中に住み始められました。そして彼の栄光の体の中に(ピリピ三・二一)、今も、そして永遠に住まわれます。

(ウイットネス・リー,新約ライフスタディ コロサイ人への手紙(一), 217-218)

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ご自身の持っているすべてを御子に与え、こうして御子の中に具体化される

 主イエスが死ぬため十字架に行かれる前、彼は弟子たちにこのように語られました、「父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。こういうわけで、彼はわたしのものから受けて、それをあなたがたに明らかにすると、わたしは言ったのである」(ヨハネ十六・十五)。この節が示していることは、御父が持っておられるものはすべて御子のものであるということです。御子は自分自身の名の中で来られるのではありません。御子は御父の名の中で来られます〈ヨハネ五・四三)。御子は自分自身の意志を求めないで、御父のみこころを求めます(ヨハネ五・三〇)。御子は自分自身の言葉を語らないで、御父の言葉を語ります(ヨハネ十四・ニ四)。また御子は自分自身のわざを行なわないで、御父のわざを行なわれます(ヨハネ四・三四)。彼はどなたでしょうか?彼は御父と共にある御子です。御父は御子と共におられました。そして御父は、すべてのものを御子に与えられました。こうして御父は御子の中に具体化されました(コロサイ二・九)。

(ウイットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上), 177-178)

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本ページ及び本ページにリンクされている記事はChristian Web Sites掲載のWitness Lee: Quotes on the Triune Godに基づいて構成されています。本ページに掲載されている内容の無断転載を禁じます。掲載されている書物および回復訳聖書の抜粋はliving Stream Ministryに著作権があり、JGW日本福音書房から許可を受けて掲載しています。


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