第二章 神は永遠に三一である

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  1. 三 — 父、子、霊— すべてが神である
  2. 三すべては永遠である
  3. 三すべては同時同存しており、様態の変化したものではない
  4. 三すべては永遠に相互内在しており、三人の分離した神ではない

1.三 — 父、子、霊— すべてが神である

1ペテロ1:2  すなわち、父なる神の予知にしたがい、その霊の聖別の中で、イエス・キリストに対する従順と、彼の血の注ぎへと選ばれた人たちへ.恵みと平安があなたがたに増し加わりますように。

エペソ4:6  すべてのものの神また父は一つ、この方はすべての上に、すべてを貫き、すべての中におられるのです。

ヘブル1:8  御子については、「神よ、あなたの御座は永遠であり、あなたの王国の杖は公正の杖です。

ヨハネ20:28  トマスは彼に答えて、「わたしの主、わたしの1神よ!」と言った。

20:28ノート1  この福音書は、人なるイエスが神ご自身であることを、強力に、意図的に証明しています(1:1-2.5:17-18.10:30-33.14:9-11)。(ウィットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

使徒5:3-4  そこで、ペテロは言った、「アナニヤよ、なぜ、あなたはサタンに心を満たされて聖霊を欺き、その土地の代金のいくらかを自分のために取って置いたのか?そのままにしておけば、あなたのものではなかったか?また売ってからも、それはあなたの権利の下になかったか?なぜあなたは心の中で、この事をたくらんだのか?あなたは人に対してではなく、神に対して偽ったのである」。

一、御父は神です

  御父は神です。ペテロの第一の手紙第一章二節は、「父なる神」と言います。エペソ人への手紙第一章十七節は、「神、栄光の父」と言います。これらの節は、御父が神であることを告げています。

二、御子は神です

  御子は神です。ヘブル人への手紙第一章八節は、「御子については、『神よ・・・・』・・・・と言われます」と言います。ヨハネによる福音書第一章一節は、「言は神であった」と言います。これらは、御子が神であることをはっきりと告げています。

三、その霊は神です

  その霊は神です。使徒行伝第五章三節から四節は言います、「なぜ、あなたはサタンに心を満たされて聖霊を欺き・・・・・・ あなたは人に対してではなく、神に対して偽ったのである」。この言葉は、その霊も神であることを明確に告げています。

(ウイットネス・リー,三一の神 すなわち、父、子、霊に関して,20-21)

  父、子、聖霊は神です。わたしたちは幾つの神を持っているのでしょうか。一つです。いったいどうして父、子、聖霊のいずれもが神であり、しかもただ一つの神しかないのでしょう。わたしたちのなしえる唯一の答えは、「わたしは知らない」ということです。

(ウイットネス・リー, 純粋な聖書の言葉による、三で一の神の啓示, 14,16)

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御父、御子、その霊はひとりの神である

  御父、御子、その霊はひとりの神です。ペテロの第一の手紙第一章二節は、御父は神であると告げています。へブル人への手紙第一章八節は、御子は神であると告げています。使徒行伝第五章三節から四節は、その霊は神であると告げています。もしあなたが聖書を浅薄に読むなら、あなたは御父、御子、その霊は三人の分離したパースンであると思うかもしれません。しかし、ヨハネによる福音書だけでも注意深く読み、その真理の深みへと入り込むなら、あなたは、御子が御父の名の中で来られ、御父のみこころを遂行し、御父と共に、御父の名の中で御父のわざをなし、御父の言葉を語り、御父の栄光を求められたことがわかるでしょう。もしあなたがこれらの要点を扱っている節の深みに触れるなら、御子と御父とは一であることを認識するでしょう。あなたは彼らを分離することはできません。

  同じように、その霊は御子から分離していません。これらの二つの称号からは、それらは二つの分離したパースンであるように見えます。しかし、あなたがこの問題を扱っている節の詳細の深みに入り込むとき、あなたはその霊が御子の名の中で来られること、その霊は御子について証しするために来られること、そして御子の栄光を現すことを、見るでしょう。さらにまた、御子は、ご自身であられるすべてのもの、ご自身が持っておられるすべてのものを、その霊に与えられました。これらの要点は、その霊と御子が一であることを示します。もしその霊と御子とが一でないとしたら、どのようにしてその霊は御子の名の中で来ることができるでしょうか?どのようにしてその霊は御子を啓示するために来ることができるでしょうか?どのようにしてその霊は御子の栄光を現すために来ることができるでしょうか?どのようにして御子は彼にあらゆるものを与えることができるでしょうか?最終的にあなたは、彼らが一であることを承認しなければなりません。御子と御父が一であること、その霊と御子も一であるというこのような認識は、ヨハネによる福音書の中の明瞭な啓示によるものです。
 
  これらすべての事柄を一緒にすると、あなたは一つの決定的に重要な点を見ます。すなわち、これらの三、すなわち御父、御子、その霊は、ひとりの神であるということです。それらは決して分離され得ません。第二は第一の名の中で、第一と共に来られます。そして第三は、第二の名の中で、第一によって遣わされました。そして第一と第二と共に来られました。ですから、彼らはすべて相互内在しています。御子は御父の名の中におり、御父は御子の名の中にいます(ヨハネ十四・十–十一)。彼らは互いにミングリングされています。どうして彼らは分離され得るでしょうか? 三者は一です。第三は第二の変ぼうです。また第二は第一の具体化です。御子は御父の具体化です。そしてその霊は御子の変ぼうです。そのような表現は、実は彼らが一であることを意味します。もし御子が御父と一でないなら、どうして御子が御父の具体化であることができるでしょうか? もしその霊が御子と一でないとしたら、その霊はどうして御子の変ぼうであることができるでしょうか?

  三一のこの問題は非常に奥義的です。わたしたちはそれを徹底的に説明することはできません。それはわたしたちに具体化とか変ぼうといった用語を取り上げざるを得なくさせます。わたしたちは代理という用語を用いたくありません。なぜなら、御父と御子との間に、また御子とその霊との間にどのような代理があるとも、わたしたちは信じないからです。わたしたちは、御子が御父の具体化であること、その霊が御子の変ぼうであることを信じます。彼らは互いに分離され得ませんし、また互いに代行されているのでもありません。

(ウイットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上), 225-228)

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2.三すべては永遠である

イザヤ9:6  ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

ヘブル1:11  それらは滅びますが、あなたはいつまでも存続されます.それらはすべて、衣のように古びます.

ヘブル1:12  あなたはそれらを外套のように巻いてしまわれます.それらは衣のように取り替えられます.しかし、あなたは同じであり、あなたの年は尽きることがありません」と言われます。

ヘブル7:3  彼には父がなく、母がなく、系図がなく、生涯の初めも命の終わりもなく、神の御子のようであって、永久に祭司としてとどまっています。

ヨハネ8:58  イエスは彼らに言われた、「まことに、まことに、わたしはあなたがたに言う.アブラハムが存在する以前に、『1わたしはある』」。

8:58ノート1  大いなる「わたしはある」としての主は、永遠に、いつまでも存在する神です。ですから彼は、アブラハムが存在する以前におられ、アブラハムよりも偉大です(53節)。(ウィットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

ヘブル13:8  イエス・キリストは昨日も今日も、永遠に同じです。

ヘブル9:14  まして、キリストが永遠の霊を通して、傷のないご自身を神にささげられたその血は、なおさらわたしたちの良心をきよめて、死んだわざから離れさせ、生ける神に仕えるようにさせないでしょうか?

Some of the rumors and accusations claim that we do not believe that the Father, Son, and Spirit are eternal. I do not know where the critics and accusers get such a thought. We want to declare to all that, in accordance with the Bible, we believe that the Father is eternal, the Son is eternal, and the Spirit also is eternal. We believe this and declare it because the Bible tells us so.

THE FATHER IS ETERNAL
Isaiah 9:6 has the term the “everlasting Father.” The literal translation of the Hebrew phrase here is “Father of eternity” or “eternal Father.” Hence, the Father is eternal.

THE SON IS ETERNAL
The Son also is eternal. Hebrews 1:12 says of the Son, “Thou art the same, and thy years shall not fail.” Hebrews 7:3 says that He has no beginning of days nor end of life, meaning that He is eternal. Eternal is that which has no beginning or ending. This is why a circle rather than a straight line is a sign of the eternal God. He has no beginning and no ending.

THE SPIRIT IS ETERNAL

The Spirit also is eternal, for Hebrews 9:14 speaks of “the eternal Spirit.” Therefore, let everyone know that in accordance with the Bible, we declare that all Three, the Father, the Son, and the Spirit, are eternal.

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3.三すべては同時同存しており(同時に存在する)、様態(段階)の変化したものではない

マタイ3:16  イエスはバプテスマされると、直ちに水から上がられた.すると見よ、天が彼に開かれた.そして彼は、神の霊がはとのように下って、彼の上に来るのをご覧になった。

マタイ3:17  すると見よ、天からの声が言った、「1これはわたしの子、愛する者、わたしは彼を喜ぶ」。

3:17ノート1  聖霊が下って来ることはキリストの油塗りであり、御父の語りかけは愛する子であるキリストへの証しでした。ここに神聖な三一の絵があります。御子は水から上がりました。その霊は御子の上に下りました。御父は御子について語られました。これは父、子、霊が同時に存在することを証明します。これは神のエコノミー達成のためです。(ウィットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

ヨハネ14:16-17  わたしは父にお願いしよう.そうすれば、彼はあなたがたに別の慰め主を与えて、いつまでも、あなたがたと共にいるようにしてくださる.それは実際の霊である.世はその方を受けることができない.それは、世が彼を見ないし、知りもしないからである.しかし、あなたがたは彼を知っている.彼はあなたがたと共に住んでおり、あなたがたの中におられるようになるからである。

  父、子、霊はみな同時に存在します。ヨハネ福音書14章16–17節に注目してください、「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。それは、真理の霊である」。 この二節の中で、子は、父が霊を送って下さるようにと父に祈っています。ですから、父、子、(the)霊はみな同時に存在するのです。

  エペソ人への手紙3章14–17節でパウロは、どうか父がその霊により、わたしたちを内なる人の中で強くして下さるように、そしてキリストがわたしたちの心の中に彼の住まいをつくられるように祈ると言っています。この節の中に、父、(the)霊、そして子なるキリストがあります。みな同時に存在しています。聖書は、み父はある期間だけ存在された、それからみ子がこられた。そしてある期間の後、み子はもう存在しなくなり、(the)霊に取って代わられたとは言っていません。このように言っている節は一つもありません。聖書は、この節でみ父は祈りを聞き、(the)霊は聖徒たちを強くし、み子キリストは彼らの心の中にその住まいをつくられると述べています。ここで再び、三つは同時に存在することが明らかです。

  コリント人への第二の手紙13章13節は言います、「主イエス・キリストのめぐみと、神の愛と、聖霊の交わりとがあなたがたと共にあるように」。ここに、子なるキリストの恵み、父なる神の愛、そして、聖霊の親しい交わりが述べられています。三つは同時に存在します。

  コリント人への第一の手紙12章4–6節は、賜物の霊、行政の主、そして、働きの神を言っています。ここに、(the)霊、主、神を見ます。またしても(the)霊、子、父が同時に存在し、働かれていることが示されています。(the)霊は、賜物を与えています。主は行政されています。父は働いておられます。ですから、わたしたちはみ父はもはや存在されなくなったとか、み子がみ父に取って代わるためにこられたとか、そして、しばらくの後、(the)霊がみ子に取って代わられたのだなどとは信じません。わたしたちは父、子、霊の三つとも、みな永遠であり、また同時に存在していることを信じます。

(ウイットネス・リー, 純粋な聖書の言葉による、三で一の神の啓示, 18,20,22)

  わたしたちを批判する人たちは、「ウイットネス・リーがキリストは父であり、霊であると教えるとき、彼は様態論を教えているのであり、神たるかたの三格位の相互内在と、同時同存を否定しているのである」と言います。わたしはこの告発を受けつけません。もしその批判者がわたしに、マタイによる福音書第三章十六、十七節の、子が立っておられ、霊が下っており、父が語っておられるところを信じているかと問うたとしたら、わたしは少なくとも彼らと同じくらい信じていると答えるでしょう。父、子、霊の三者すべてが同時に存在しました。れたしは神たるかたの三格位の共有の性質と、共有の存在を全く信じます。わたしはマタイによる福音書第三章十六、十七節を信じるだけでなく、この間題に関係あるすべての節を信じます。たとえば啓示録第一章四、五節は、「今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかたから、また、その御座の前にある七つの霊から、また………イエス・キリストから、・恵みと平安とが、あなたがたにあるように」と言っています。これらの節では、父は「今いまし、昔いまし、やがてきたるべきかた」であり、霊は「七つの霊」であり、子はイエス・キリスト「忠実な証人、死人の中から最初に生まれた者、地上の諸王の支配者」です。ここでは父、霊、子はキリストの復活後に現存しているだけでなく、彼の昇天とペンテコステの後もなお現存しています。他の多くの節が同じ事を啓示しています。コリント人への第二の手紙第十三章十三節は、「イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりがあなたがた一同と共にあるように」と言っています。ここでわたしたちはキリストの恵み、神の愛と、霊の交わりを見ます。なおまたエペソ人への手紙第三章十四–十七節は、「わたしは父に向かってひざをかがめる。彼が聞きとどけて下さり、………彼の霊により力づけて下さるように………キリストがあなたがたの心の中にご自身の住まいをつくり……」と言っています。再び父、霊、キリストがすべて同時に現存します。わたしが様態論者であるという告発は間違っています。わたしは完全にそれを拒否します。様態論は、神は同時に父と子であるのではない、また子の啓示は昇天で終わったのであると教えます。様態論者は父、子、霊の永存性を否定します。様態論は異端です。わたしたちはそれを信じません。

(ウイットネス・リー, 何という異端 — ふたりの神聖な父 二つの命を与える霊 三人の神, 5-7)

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父と子と霊の相互内在と、同時同存

 批評家たちのある者は、「マタイによる福音書第三章十六節から十七節は子はそこに立っておられ、父は天から語っておられ、また霊は子の上に下っていたと言っています。三の全部が同時に行動していました。ところで確かにあなたの言うところによれば、あなたはこれを信じない」と言います。わたしたちの答えは、わたしたちは批評家たちが信じる以上にそれを信じているということです。なぜならわたしたちは純粋な言葉に従って聖書を信じるからです。わたしたちは聖書の言っていることは何でも信じます。わたしは父と子と霊が同時におられると言っている多くの聖句を指摘することができます。コリント人への第二の手紙第十三章十三節は、「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように」と言っています。父と子と霊の三がすべてここにあります。エペソ人への手紙第三章十四節から十七節で、パウロは父に向かってひざをかがめ、彼の霊によって聖徒たちをますます強くして下さり、キリストが彼らの心の中に住まいをつくることができるようにと祈りました。ここに父、霊、子を見ます。これは三一の神です。

様態論の誤りは何でしょう。様態論は父と子と霊はすべてが永遠なのではなく、またすべてが同時に存在するのではないと教えます。むしろそれは御子の啓示は昇天をもって終わり、昇天の後御子は存在することをやめられたと主張します。様態論は行き過ぎました。父、子、霊の相互内在と、同時同存を信じません。様態論のようにではなく、わたしたちは神たるかたの三の相互内在と、同時同存を信じます。すなわち父と子と霊はすべて同時にまた同じ条件の下に存在されることを信じます。わたしたちはまた三がすべて永遠であることを信じます。イザヤ書第九章六節は父は永遠であると言い、またへブル人への手紙第一章十二節第七章十七節は御子は永遠であることを示し、そしてへブル人への手紙第九章十四節は永遠の霊を語っています。父、子、そしてその霊は一時的ではなく、永遠です。

(ウイットネス・リー,青年訓練, 119-120)

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4. 三すべては永遠に相互内在しており(相互に住み合っている)、三人の分離した神ではない

ヨハネ1:1  初めに言があった.言は3神と共にあった.言は神であった。

1:1ノート3  言と神は分離していません。言は言であり、神は神であって、互いに分離しているのではありません。むしろ、その両者は一です。ですから次の文章で、言は神であったと言っているのです。(ウィットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

ヨハネ10:30  わたしと父は一である」。

ヨハネ14:9-11  イエスは彼に言われた、「ピリポよ、わたしがこんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、あなたはわたしを知らなかったのか? わたしを見た者は父を見たのである.どうしてあなたは、『わたしたちに父を見せてください』と言うのか?わたしが父の中におり、父がわたしの中におられることを、あなたは信じないのか? わたしがあなたがたに語る言葉は、わたしが自分から語るのではない.わたしの中に住んでいる父が、ご自身のわざを行なっておられるのである。わたしを信じなさい.わたしは父の中におり、父はわたしの中におられる.しかし、もし信じないなら、わざそのものによって信じなさい。

1コリント15:45  そこで、「最初の人、アダムは、生きた魂と成った」と書かれていますが、最後のアダムは、命を与える霊と成ったのです。

コロサイ2:9  なぜなら、キリストの中には、神たる方の全1豊満が肉体のかたちをもって住んでいるからです.

2:9ノート1  「豊満」は、神の豊富ではなく、神の豊富の表現を言います。キリストの中に住んでいるのは、神たる方の豊富だけでなく、神であることの豊富の表現でもあります(参照,エペソ3:19のノート3)。(ウィットネス・リー, 新約聖書回復訳フットノート)

御父と同時同存しているだけでなく、御父と相互内在している

  御子キリストは、御父と同時同存するだけでなく、御父と相互内在します。ヨハネによる福音書でわたしたちは、永遠の過去において御子と御父が同時同存していたと告げられています。なぜなら、言は神と共にあったからです(ヨハネ一・一)。御子が来られた時、御子は、わたしは一人ではなく、御父がわたしと共におられる、と言われました(ヨハネ八・十六二九)。ですから、御子が地上におられたとき、御子と御父は共に存在しておられました。しかし他方において、主は、わたしは父の中におり、父はわたしの中にいると言われました(ヨハネ十四・十前半十一前半十七・二二)。ある人たちは、御子と御父は分離しており、御子は御父を代行するだけである、と言いました。しかし主は、わたしを見た者は父を見たのである、と言われました(ヨハネ十四・九)。これは単なる代理の問題ではありません。これは受肉の問題です。御父は完全に御子の中に具体化されました(コロサイ二・九)。あなたは御子を見るとき、御父を見るのです。御子は御父の具体化であるからです。あなたは彼らを分離することはできません。なぜなら、第一は第二の中に具体化されており、第二は第一の具体化そのものであるからです。ですから、第二は第一の中におられ、第一は第二の中におられます。両者は一です。

  これは教理のためではありません。実は、わたしたちの側では経験のためであり、彼の側では分与のためです。わたしたちが主を呼び求めて救われた時、わたしたちは直ちに、だれかがわたしたちの中に入って来られたという認識を持ちました。それはだれだったでしょうか? それは御父だったでしょうか、御子だったでしょうか、その霊だったでしょうか? それを言うのは困難です。第一に、御子がわたしたちの中におられるようです。後ほど、御父もわたしたちの中におられるようです。最終的に、その霊もわたしたちの中におられるようです。わたしたちがその霊を持っている限り、わたしたちは御子も御父も持っています。わたしたちが一を持つとき、わたしたちは三を持ちます。なぜなら、三者は一であるからです。これは三一の神の分与であって、これはわたしたちの経験のためです。

(ウイットネス・リー, 神聖な三一の神聖な分与(上), 193-194)

  クリスチャンは聖霊について質問される時、その霊は神格の第三のパースンであると言います。彼らは神格は三つのパースン、父、子、霊を含んでいることを指摘します。聖霊は神格の第三であると言うのは正しいのですが、この理解は不十分です。御父と御子は、神格の第三である、その霊の中に完全に実際化されているのを見ることは、とても重要です。これは、御子あるいは御父から聖霊を分離することはできないことを意味します。

  神格の三者は同時同存するだけでなく、相互内在します。ですから、父、子、霊の間に同時同存と相互内在があります。神は三一であり、三で一です。同時同存とは、同時に共に存在することを意味します。相互内在を定義し、理解するのはさらに困難です。三一の神に当てはめてみると、この言葉は父、子、聖霊が互いの中に存在することを意味します。聖書は、御子が来られた時、御父も彼と共に来られたことをはっきりと啓示しています。同じように、その霊が来る時、御子と御父と共に来られます。さらに、御子が来られた時、御父が外側でではなく、内側で、主観的に、御子の中で御子と共に来られました。

  御父と御子、御子とその霊の関係について、ヨハネによる福音書は特別なギリシャ語の前置詞、「から共に」と訳される前置詞を用いています(十六・二七)。御子は御父から来ただけでなく、御父から共に来られました。彼は御父から、また御父と共に来られました。これは、御子が来られた時、御父も来られたことを示します。御父は御子の中で来られました。ですから主は、「わたしを見た者は父を見たのである」と言うことができました(十四・九)。彼はまた、「わたしが父の中におり、父がわたしの中におられる」と証しすることができました(十節)。一方で、御父と御子は二ですが、もう一方で、彼らは一です。御父は御子と共に来ただけでなく、御子の中でも来られたので、御子、主イエスはこう言うことができました、「わたしがあなたがたに語る言葉は、わたしが自分から語るのではない。わたしの中に住んでいる父が、ご自身のわざを行なっておられるのである」(十節)。さらに、聖書によれば、御子を持つなら、御父をも持ちます(1ヨハネ二・二三)。御父は御子と共に、御子の中にさえおられるので、御子を受け入れる時、御父を受けます。さらに、その霊が来る時、御子と御父と共に来られます。ですから、その霊を持つことは、御子と御父を持つことです。

 聖霊は、わたしたちに対する三一の神の究極的に完成された到達です。聖霊があなたに臨む時、彼、すなわち神格の第三だけが来て、御父と御子は天にとどまっておられると考えてはなりません。あるクリスチャンはそのような理解を持っています。彼らはキリストがわたしたちの中におられることを信じないで、キリストは聖霊を遣わしてわたしたちの中で彼の代表として機能させられたと主張します。この観念は完全に間違っています。聖書は、その霊は信者たちの中の御子を代表するとは言っていません。そうではなく、聖書によれば、聖霊が来られる時、御子が彼と共に、彼の中で来られます。御父も御子とその霊と共に来られます。これは、聖霊がわたしたちに来る時、三一の神全体が来られることを意味します。聖書によれば、御父は源であり、御子は経路であり、その霊は流れであると言ってよいでしょう。聖霊はあなたとわたしにとって三一の神の究極的な完成の到達であるとは、何とすばらしいことでしょう!

(ウイットネス・リー, 新約ライフスタディ ピリピ人への手紙, 205-207)

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本ページ及び本ページにリンクされている記事はChristian Web Sites掲載のWitness Lee: Quotes on the Triune Godに基づいて構成されています。本ページに掲載されている内容の無断転載を禁じます。掲載されている書物および回復訳聖書の抜粋はliving Stream Ministryに著作権があり、JGW日本福音書房から許可を受けて掲載しています。


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