第七章 旧約の中で啓示されている三一の神

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  1. 神は人との関係において三一である
  2. アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神
  3. 金の燭台は三一の神の象徴である
  4. 裂かれた岩によって啓示された三一の神

1.神は人との関係において三一である

創世記1:26 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。・・・・」と仰せられた。(新改訳)

民数記6:24-26 『主があなたを祝福し、あなたを守られますように。主が御顔をあなたに照らし、あなたを恵まれますように。主が御顔をあなたに向け、あなたに平安を与えられますように。』 (新改訳)

イザヤ6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。・・・・」(新改訳)

 父、子、霊という神格の三一の事柄は、すでに旧約において啓示されていました。

1  旧約の最初の文は次のように述べています、「初めに、神が天と地を創造した」(創一・一)。原文では、「神」という主語は数において三重になっていますが、その動詞は単数になっています。これは、神が三・一であるという意味を含んでいます。

2  創世記第一章二六節では、「神」という言葉が原文で三重の数において用いられているだけでなく、神がご自身のことを「わたしたち」と言っています。その後も、旧約は何度もこのように語っています。それはすでにわたしたちが指摘したようにです。これはもっぱら神のパースンが複数であることを言い表しています。しかし、ここ創世記第一章二六節では、神の「かたち」について原文で用いられている言葉は、単数になっています。神は「わたしたち」、すなわち複数ですが、「わたしたち」の「かたち」は単数、「なのです。ですから、これもやはり、神が三・一であるという意味を含んでいます。

3  出エジプト記第三章六節で、主はモーセに次のように言われました、「わたしは、あなたの父の神、アプラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」。この部分は、神が、父祖の神として、三重であることを啓示しています。アブラハムの神については、その強調点は御父にあります。イサクの神については、その強調点は御子にあります。ヤコブの神については、その強調点はその霊にあります。(参照、「アブラハム、イサク、ヤコブの神」。これは「彼の様へと変えられる」という書名にもなっている)。ですから、神がここで啓示しているご自身の名もやはり、三・一の意味を含んでいます。彼はひとりの神ですが、三重の事柄があります。すなわち、父、子、霊という三重のパースンがあります。.

4  民数記第六章二四節から二六節において、主は旧約の祭司たちに命じて、イスラエルの子たちに三重の祝福を授けさせました。その理由は疑いもなく、彼、すなわち、祝福を授ける神が、三つのパースンを持つ方であるからです。第一に、「あなたを祝福し」、「あなたを守られますように」とは、明らかに父なる神のみわざです。第二に、「あなたに照らし」、「あなたに対して恵み深くありますように」とは、明白に子なる神のみわざです。第三に、「笑顔をあなたに向け」、「平安を与えられますように」とは、疑いもなく霊なる神のみわざです。ですから、これが意味することは、三一の神、すなわち、父、子、霊が、彼の選びの民を祝福し、彼らに対して恵み深くあり、平安を与えられるということです。

5  旧約は、地上の祭司が神の御名において神の民に三重の祝福を授けることを述べているだけでなく、イザヤ書第六章三節において、天のセラビムが三重の賛美を神にささげて、「聖なる、聖なる、聖なる」と言うことをも述べています。彼らが「聖なる」という言葉を三度繰り返して神を賛美する理由は、疑いもなく、彼らの賛美する神が一・三であるからです。それに続いて、八節では、彼らの賛美する神がご自身のことを、複数の「わたしたち」と述べています。それは、彼が三重のパースンを持っていることを意味します。

6  旧約はしばしば、人の形をした主の使い(この方は、新約時代では、肉体と成って人の形を取ったキリストです)が主ご自身であることを述べています(出三・二–六、士六・十一–二四、十三・十五–二四、ゼカリヤ一・十一–十二、二・八–十一)。主の使いと主は二人であるかのようですが、実は彼らは一です。これもやはり、神格の三つのパースンという事実によるものです。ちょうど、新約においてキリストと神が二であるが、一でもあるのと同じようにです。

7  詩篇第百十篇一節においてダビデは次のように言います、「主は、わたしの主に仰せられる。『わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ』」。ここの主は、もちろん神です。また、ダビデが「わたしの主」と呼んだ方は、主イエスです。それは、主ご自身がマタイによる福音書第二二章四二節から四五節で示している通りです。ですから、詩篇第百十篇は神と主イエスについて語っています。神はここでご自身のことを「わたしの」と語っており、主イエスのことを「あなたの」と語っています。主イエスは神です。しかしここでは、神が彼に語っていることと、神と彼との間には「わたしの」と「あなたの」の違いがあることを、述べています。彼と神は一ですが、彼らは二です。これもやはり、神格の三つのパースンの事でなければなりません。

8  旧約は、父、子、霊という三つの名を啓示してさえいます。サムエル記下第七章十四節は、父と子について語っています。イザヤ書第九章六節は、子と父について語っています。詩篇第二篇七節は、子について語っています。エゼキエル書第三六章二七節、第三七章十四節、第三九章二九節、ヨエル書第二章二八節から二九節などは、霊について語っています。以上の部分によれば、わたしたちは次の事も見ます。(一)御父は源です。なぜなら、御子は御父から出てくるからです。(二)御子は現れです。なぜなら、御子はわたしたちに与えられ、わたしたちへとやって来るからです。(三)その霊は、わたしたちの中に入られる方です。なぜなら、その霊は、わたしたちが所有し享受するために、わたしたちの中へと入れられるからです。これは、その後の新約において啓示される点と正確に一致しています。

(ウィットネス・リー, 三一の神 すなわち、父、子、霊に関して, 13-16)

From the Hebrew text, we see that in Genesis 1:1, the word “God” as the subject of the sentence is in the plural number. “In the beginning God created the heavens and the earth.” But the word “created” as the predicate of the sentence is in the singular. This is quite meaningful. The subject is plural, but the predicate is singular. In the first verse of the Bible the Triune God is revealed in a secret way. It is not so clear unless you know the numbers of the Hebrew language.

Then in Genesis 1:26, God uses the plural pronouns “us” and “our” to denote Himself. “God said, Let us make man in our image, after our likeness.” This really causes a problem. Is God singular or plural? If we say that God is singular, why does He use the plural pronoun for Himself? And if we say that God is plural, it is the greatest heresy. We know that we do not have three gods, but only one God. Yet how can we understand these verses? It is very difficult to understand this matter completely. In a sense, the Triune God is one of the greatest mysteries in the universe.

From Genesis 1, we go on to Genesis 3. After the fall of man, God again uses the plural pronoun for Himself. “The Lord God said, Behold, the man is become as one of us, to know good and evil” (Gen. 3:22).

In Genesis 11, men had become so rebellious against God that they built the tower of Babel and the city of Babel. Then God said: “Go to, let us go down, and there confound their language, that they may not understand one another’s speech” (Gen. 11:7) Again we see that God uses the plural pronoun in referring to Himself.

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RELATED TO MAN

When God uses the plural pronoun for Himself, it is always related to man. When God created man, He used the plural pronoun for Himself. When God took care of fallen man, He used the plural pronoun again. And when God came to deal with rebellious man, He used the plural pronoun. This means that the Triune God is for God’s dealing with man. In Genesis 1, when God was creating all the other things, He never used the plural pronoun for Himself. It seems that to all the other creatures, God was just God Himself. But whenever God is related to man, He is Triune.

There is another occasion in the Old Testament when God uses the plural pronoun for Himself, and it is also related to man. It is found in Isaiah 6:8. Isaiah saw God on the throne, and then He heard God ask the question, “Who will go for us?”

Hence, we see that whether God created man, took care of fallen man, came to deal with rebellious man, or sent someone to proclaim something to man, He was Triune. God’s relationship to man was almost always related to His being Triune.

(ウィットネス・リー, Stream Magazine, 1415-1416)

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2.アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神

出エジプト3:6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。(新改訳)

 この団体の人を召し、この団体の人を対処しに来られた神は、三一の神、父、子、霊でした。神はモーセに燃えるいばらの中から語った時、「わたしはあなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と言われました(出三・六)。出エジプト記第三章で、モーセが主の御使いに召されたこと、主の御使いは主ご自身であったこと、主ご自身がアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であったことを見ます(二、四、六節)。神は、「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセの神である」と言われたのではありません。違います、彼はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であると言われたのです。この神、すなわち主は、主の御使いでもあります。あなたはこれを理解することができるでしょうか? 出エジプト記第三章を読むなら、二節は主の御使いについて語り、四節は主について語っていることを見いだすでしょう。次に六節で、主ご自身であるこの主の御使いは、モーセに、「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と告げられました。あなたはこれは三人の神であると思うでしょうか? ここに三プラスもう二つ、主の御使いと主があります。これら五人の個々は、五人の神でしょうか? 主の御使いと主は確かに二人です。主の御使いは主ご自身であると、言うことができるでしょうか? できます。なぜなら、聖書がそう告げているからです。だれも出エジプト記第三章を研究し尽くすことはできません。最終的に、出エジプト記第三章十四節で、神はモーセに言われました、「わたしは、『わたしはある』である」。神はこう言っておられるかのようでした、「わたしは主の御使いである。わたしは主である。わたしはアブラハムの神である。わたしはイサクの神である。わたしはヤコブの神である。わたしは『わたしはある』である。わたしはあなたがこのこと、わたしが『わたしはある』であることを、理解しょうとしまいと気にしない。あなたがこれに同意しょうとしまいと気にしない。わたしは、『わたしはある』である」。これがわたしたちの神、団体の人に働いた神です。この神は、主の御使い、主ご自身、アブラハム、イサク、ヤコブの神、大いなる「わたしはある」です。

(1)アブラハムの神 — 御父

 アブラハムに対する神の召しは、父なる神の働きでした。アブラハムの本来の名はアブラムで、「高くされた父」を意味します。この名に代わったアブラハムという名は、「多くの国民の父」を意味します。これらの名にはいずれも、父という基本的な思想があります。三一の神の第一は父であり、アプラハムは召された者たちの第一でした。アブラハムは召された者たちの父であり、三の神の第一は御父です。御父は命の源です。彼はまた計画と目的の源でもあります。父なる神に計画、目的がありました。彼には目的があったので、彼は永遠の過去に選び、あらかじめ定められました。ついに、時間の中で、御父は入って来て、召し、義とし、受け入れ、召された者たちを顧みられました。父なる神のみわざは、選び、あらかじめ定め、召し、義とし、受け入れ、召された者たちを顧みることです。選ぶこととあらかじめ定めることは、召しの事柄に先立ちます。ローマ人への手紙第九章十一節を読めば、これら二つの項目が、ヤコブにおいて見いだされるのを見るでしょう。それにもかかわらず、アブラハムにおいて、父なる神と関係があるほとんどすべての経験を見るのです。これはとても意義深いことです。

(2) イサクの神 — 御子

 イサクは子でした。三一の神の第二が子であるのを見ることはとても興味深いです。子とは何でしょう?子は父から出て来る者、父であり、持っているすべてを受け継ぐ者、父が願うことすべてを成就する者です。イサクの歴史をよく見るなら、彼がまさにそのようなものであったことを見いだすでしょう。彼は父から出て、父のすべてのものを受け継ぎ、働いて父の目的を完成しました。これがイサクの経験であり、三一の神の第二、子なる神に合う経験です。主なるイエスは、神の子として、御父から出て来て(ヨハネ十六・二八)、御父であるすべて、御父が持っているすべてを受け継ぎ、御父のみこころをすべて成就されました(ヨハネ六・三八)。イサクの生涯は御子の生涯に相当します。

(3)ヤコブの神 — その霊

 今やヤコブに来ます。押しのける者であるヤコブは、召しと相続の経験だけでなく、それ以上のものを必要としました。彼はおもに肉にある人から、霊にある人に彼を造り変える対処を必要としました。ですから、三一の神の第三であるその霊が、こうかつで、押しのけるヤコブの上に働いて、彼を訓練し、造り変えて神の王子にするのはとても意義深いことです。このヤコブにおいて、再生、訓練、造り変え、命における成長と円熟を見ます。このすべてはその霊の働きです。ですから、ヤコブの神は、霊なる神であるのです。

(ウィットネス・リー, 旧約ライフスタディ創世記(三), 35-38)

 アブラハム、イサク、ヤコブの経験は、団体の召された者の完全な経験です。これを見るなら、わたしたちはひれ伏して言うでしょう、「おお、父なる神よ、わたしたちはあなたを必要とします。わたしたちはあなたの計画、目的、選び、予定、召し、義認、受け入れること、顧みを必要とします。おお、子なる神よ、わたしたちはあなたを必要とします。わたしたちは、あなたがわたしたちを贖ってくださり、わたしたちが嗣業を持つことを必要とします。わたしたちは御父が計画されたすべてのことを、御父がなそうと企てられたすべてのことを、成就されるあなたを必要とします。おお、霊なる神よ、わたたたちはあなたを必要とします。わたしたちは、あなたがわたしたちを再生し、訓練し、造り変え、成長させてくださり、わたしたちが命において円熟することを必要とします。わたしたちは、あなたがわたしたちを真のイスラエルにしてくださることを必要とします。わたしたちは御父が計画されたすべてのことを、御子が成就されたすべてのことを、わたしたちに実際としてくださるあなたを必要とします。わたしたちの三一の神よ、何とわたしたちはあなたにひれ伏し、あなたを礼拝し、あなたを賛美することでしよう。またあなたがわたしたちに、またわたしたちの中で行なってくださったすべてのことに対して、何とあなたに感謝することでしよう!」。

 このようなことを見た後、わたしたちはへりくだって、団体の召された者の経験全体は、わたしたちが個人として持つにはあまりに多すぎることを認識するでしょう。わたしはアプラハム、イサク、ヨセフを伴うヤコブであることはできません。これら三人のうちの一人であり得るにすぎない以上、わたしは残りの部分に対してわたしの兄弟たちに依り頼むことを学ばなければなりません。たとえイスラエルのように円熟したとしても、わたしはなおも、だれかがわたしのアブラハムであり、わたしのイサクであることを必要とします。わたしたちはみな、せいぜい、からだの肢体であるにすぎないことを、認識しなければなりません。わたしたちはみな他のすべての肢体を必要とします。わたしたちの伝統的な背景によれば、あらゆる人は、アブラハムを最高に持ってきて、彼が他のあらゆる人にまさっていると考えます。しかし、アブラハムはあらゆる人にまさっていたのではありません。彼は信仰の事柄では他の人にまさっていましたが、円熟においては超越していたのではありません。すでに見てきたように、ヤコブが最も円熟した人でした。

 現在、わたしたちはみな、神の召された者のこの経験の過程にあります。わたしたちのある者はアブラハムであり、ある者はイサクであり、ある者はヤコブです。今やわたしたちは三一の神を、神学の中でではなく、わたしたちの経験の中で享受しています。わたしたちは彼を、教理上の観念として持つのではなく、経験上の享受として持ちます。わたしたちは父なる神、子なる神、霊なる神を享受しています。御父の召し、義認、受け入れ、わたしたちを顧みられることを享受するとは、何と良いことでしょう。御子の贖い、救い、わたしたちを嗣業の中にもたらされること、神の永遠の目的を達成されることを認識するのは、何とすばらしいことでしょう。その霊の再生、訓練、造り変え、わたしたちを成長させ、円熟させてくださることを経験するのは、何とすばらしいことでしょう。わたしたちは単に三一の神を論議しているのではありません。わたしたちは彼を経験しているのです。わたしたちは御父、御子、その霊にあずかっているのです。三一の神は経験的にわたしたちと共におられます。召会生活の中で、わたしたちはアブラハム、イサク、ヨセフを含むヤコブであり、三一の神を経験しているのです。わたしたちは、選び、あらかじめ定められること、召し、義認、受け入れること、顧み、贖い、相続、神の目的の成就、再生、訓練、造り変え、成長、円熟、最終的には支配することを享受しています。主を賛美します!これが団体の召された者を伴う三一の神です。

(ウィットネス・リー, 旧約ライフスタディ創世記(三), 43-45)

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3.金の燭台は三一の神の象徴である

出エジプト記25:31 また、純金の燭台を作る。その燭台は槌で打って作らなければならない。それには、台座と支柱と、がくと節と花弁がなければならない。 (新改訳)
25:36-37 それらの節と枝とは燭台と一体にし、その全体は一つの純金を打って作らなければならない。 それにともしび皿を七つ作る。ともしび皿を上げて、その前方を照らすようにする。(新改訳)
25:39-40 純金一タラントで燭台とこれらのすべての用具を作らなければならない。よく注意して、あなたが山で示される型どおりに作れ。(新改訳)

三一の神の表現

燭台は三一の神の表現を表徴します。このことだけでも燭台がどれほど奥義的であるかをわたしたちに印象付けるのに十分です。宇宙の中で三一の神以上に奥義的なものはありません。「なおまた、聖書における神聖な啓示の中でも最も当惑させる要素がやはり三一の神です。何世紀にもわたり、聖書の読者たちは聖書の中の三一の神の啓示によって当惑させられてきました。今日でさ、え、わたしたちは三一の神について十分な理解を跨っているわけではありません。しかしながら、燭台が三一の神の表現であることを見ることは非常に助けになります。

 ユダヤ人たちは何世紀にもわたるその歴史を通して、燭台を大切にしてきました。しかしいかなるラビも燭台が三一の神の表現を象徴すると言おうとはしません。わたしはそのような認識を持ついかなるクリスチャンをさえ知りません。実は、この燭台についての理解は、最近、神の回復の中で主によって回復された一つの真理です。何年も前には、燭台が三一の神の表現を象徴していることなど、わたしたちは何も言いませんでした。しかし数年前、わたしたちは聖書では燭台は三一の神の表現であることを見始めました。

 わたしたちは金の燭台のこの問題を考えるとき、聖書は一つの完整な実体であることを記憶する必要があります。ですから、わたしたちは第二五章三一から四〇節を御言の他の部分と分離したり、聖書の他のすべての書を無視したりすべきではありません。燭台は出エジプト記だけでなく、また列王妃上、ゼカリヤ書、そして啓示録においても述べられています。啓示録第一章によれば燭台は召会です。なおまた七つのともし火はその霊です。これは何と奥義的でしょう!結局、神聖を啓示の究極において、出エジプト記第二五章の燭台は召会になるのです、また七つの燭台は神の霊となります。このことによってわたしたちは燭台には多くの事が包含されていることを見ます。なぜなら燭台は召会と神の霊といずれにも関係があるからです。啓示録はまた召会とその霊を強調します。啓示録第二二章十七節には「その霊と花嫁は言う……」という言葉さえあります。ここではその霊と召会とが一つとなって語っているのを見ます。

 前世紀においてある教師たちは旧約聖書の予表の意義を強調しました。燭台に関してこれらの教師たちは、おもに燭台は世の光としてのキリストの予表であると言いました。彼らの言ったことは正しくまた良かったのですが、十分ではありませんでした。御言のこれらの教師たちは燭台が三一の神の表現であること、究極的に燭台は召会となること、また燭台の七つのともし火は神の七つの霊であることを見ませんでした。

(1) 実質

燭台の実質、台、ともし火をよくよく考えるとき、わたしたちは燭台が本当に三一の神の表現であることを見るのです。第二五章三一節によれば、燭台は純金でできていました。ですから、金が燭台の実質、要素です。予表学では金は神聖を性質、父なる神の性質を象徴します。もし燭台のこの実質、この要素を考えるなら、わたしたちはそれが神聖な性質を象徴していることを見るでしょう。こういうわけで、このことによりわたしたちは父なる神、その性質が燭台の実質そのものであるかたを見ることができるのです。金が燭台は父なる神の性質の中で存在します。

(2) 台

 父なる神は目に見えずまた抽象的です。子なる神はこの目に見えないかたの具体的化身です。台は父なる神の化身である子なる神を象徴している一つの形体です。燭台のこの確固とした形体は金の具体化です。新約聖書によれば、父なる神は子なる神の中に具体化しておられます。ここ燭台において、わたしたちは御父を象徴するその本質と、御子を象徴する確固としたその形体とを持ちます。

(3) ともし火

 出エジプト記第二五章三七節は言います、「またともし火皿を七つ造り」。 これらの七つのともし火は、その霊なる神が神の表現のための神の七つの霊であることを象徴します。(啓四・五、五・六)。ともし火の輝きは表現を示します。ですから七つのともし火は父なる神の化身としての子なる神の表現です。啓示録の中でわたしたちは七つのともし火は神の霊であることを見ます。

 燭台において、わたしたちは父なる神を象徴する金の要素、子なる神を象徴する台、そして霊なる神を象徴する七つのともし火を持っていますから、わたしたちは燭台自体が三一の神の表現であると言う根拠を持っているのです。

(ウィットネス・リー, ライフスタディ 出エジプト記(第九集), 1384-1387)

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三一の神を表徴する

 この金の燭台には外観以上のものがあります。そうでないと輝かないでしょう。その内側の内容はそれを輝かせるものです。実際に燭台は三一の神の描写です。三一の神の教理は特に記述されていませんが、神が三一であることは極めて明らかにされています。

 わたしたちの神は一です。また神は三でもあります。神は唯一の神ですが、彼は御父、御子、その霊でもあります。ここで、わたしたちは言い方に注意深くなければなりません。神は三つのパースンの中で存在しておられると言えば、間違いです。できればパースンという言葉を避けて、彼は一における三であると言うほうが良いのです。これが三一triune(トライユーン)の意味です。これはラテン語の三を意味するtri「トライ」と、一を意味するune「ユーン」から来ています。一つの面があり、三つの面があります。

 一方において、旧約聖書と新約聖書の両方で、神が一であることを明白に告げています。詩篇第八六篇十節は言います、「ただあなたのみ、神でいらせられます」。イザヤ書第四五章五節は言います、「わたしはエホバである。ほかにはいない、わたしのほかに神はいない」。コリント人への第一の手紙第八章四節は、「唯一の神のほか、神はない」と告げています。他方において、御父、御子、その霊のはっきりした記述もあります(マタイ二八・十九、IIコリント十三・十四)。

 三一の奥義を言葉では十分説明することができません。しかし、燭台はわたしたちにその絵を見せています。それはすべて純金で造られました(出二五・三六)。幕屋には一つの燭台があるだけですが、七つのともし火がありました。全体として見てください。燭台は一つでした。けれども上から見れば、一つの燭台に明らかに七つのともし火を見ることができました。それは一における七の燭台でした。

 燭台は一ダラントの純金で造られました。これは約百ポンドの重さです。燭台の実質、あるいは本質は金でした。金は神の性質を予表しています。鉄のようにさびたり、どこに置いても化学的変化を起こしません。神の性質は、恒常的で不変であり、永遠です。ですから、金は本質と源である父なる神を示しています。

 金は定められた形に造られました。その形は機能を示します。この形は神のかたちであるキリストです(IIコリント四・四、コロサイ一・十五)。神が人を造られた時、神は人をご自身のかたちに造られました(創一・二六)。キリストは神のかたちであるので、人はキリストに似せて造られたのです。ある意味で、神には体の形はありませんが、別の意味で神のかたちの表現があります。愛する御子、キリストは見えない神のかたちです。この形は、どのような機能を示していますか? 彼は神を表現されます。「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐におられるひとり子、この方だけが、父を明らかに示されたのである」(ヨハネ一・十八)。

 この燭台のもう一つの特徴は、七つのともし火です。聖書は、これは神の七つのともし火である(啓四・五)、すなわち神ご自身の豊である、と明白に告げています。
 ですから、金の燭台は表現された三一の神を表徴します。それの本質は御父であり、その形は御子であり、その表現はその霊です。この第一段階で、燭台はキリストを表徴します。彼は地上におられた時、父なる神の性質は彼の中にありました。ですから、彼は御父のかたちでした。なぜなら主イエスは完全に御父を現されたからです。彼は人々の間で混ざり合わされた時、キリストは輝く七つのともし火でした。イエス・キリストは三一の神の表現でした。神は彼の中におられ、彼の上におられ、彼の本質そのものでした。彼をほかにして、だれも神を見いだすことができません。

(ウィットネス・リー, ライフメッセージ四, 196-198)

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4.裂かれた岩によって啓示された三一の神

出エジプト記17:1-6 イスラエル人の全会衆は、主の命により、シンの荒野から旅立ち、旅を重ねて、レフィディムで宿営した。そこには民の飲む水がなかった。それで、民はモーセと争い、「私たちに飲む水を下さい。」と言った。モーセは彼らに、「あなたがたはなぜ私と争うのですか。なぜ主を試みるのですか。」と言った。民はその所で水に渇いた。それで民はモーセにつぶやいて言った。「いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか。」そこでモーセは主に叫んで言った。「私はこの民をどうすればよいのでしょう。もう少しで私を石で打ち殺そうとしています。」主はモーセに仰せられた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを幾人か連れ、あなたがナイルを打ったあの杖を手に取って出て行け。さあ、わたしはあそこのホレブの岩の上で、あなたの前に立とう。あなたがその岩を打つと、岩から水が出る。民はそれを飲もう。」そこでモーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのとおりにした。(新改訳)

神の律法の権威によって打たれた

 主はモーセに彼の杖を用いて、「岩を打ちなさい。水がそれから出て、民はそれを飲むことができる」と告げられました(十七・六)。わたしたちは、岩がモーセの杖によって打たれたという事実によくよく注意する必要があります。予表学では、モーセは律法を象徴します、また杖は律法の力と権威を代表します。もちろん岩はキリストを予表します。杖によって岩を打つことは、キリストが神の律法の権威によって打たれたことを象徴します。神の目には、主イエスはユダヤ人によってではなく、実は神の律法によって殺されたのです。彼の十字架刑の始めの三時間は、キリストは人の手の下で苦しまれました。しかし後の三時間は、キリストは神の律法の力によって打たれて苦しまれたのでした。

岩とその霊

 多くの箇所で聖書はわたしたちに、神はわたしたちの岩であると告げています。申命記第三二章十八節は神をわたしたちを生んだ岩として言及しています。これは、わたしたちの岩としての神はわたしたちの父であることを示します。この岩は命に満ちた、生む岩なのです。サムエル記下第二二章四七節と詩篇第九五篇一節でわたしたちは、神はわたしたちの救いの岩であることを見ます。なおまた、この岩はわたしたちの力(詩六二・七)またわたしたちの避け所です(詩九四・二二)。この岩はわたしたちの隠れ家、守り、覆い、安全保障です。イザヤ第三二章二節は主のことを「疲れた地にある大きな岩の陰」と言っています。わたしたちが疲れている時、この岩によって投じられた陰の下に安息し、新鮮にされることができます。神の民のために渇いた地で待っていたこの岩こそは、民が生ける水を飲むことができるよう打たれたのです。

 その打たれた岩から流れる水はその霊を予表します。ヨハネ第七章三七、三八節は言います、「今や祭りの終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、『だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が日々となって流れ出るであろ』」。この言葉は仮いおの祭りの最後の日に述べられました。ヨハネ第七章三九節は続けて言います、「しかしこれはイエスを信じる人々が受けようとしているその霊をさして言われたのである」。これは、それから流れる水がその霊を象徴していることを明らかに示します。

 何年も前、わたしは古代のエルサレムでは、イスラエル人が仮いおの祭りを祝う時、彼らが一つの岩を置いたという記事を読みました。この記事によると、ユダヤ人の先祖たちが荒野をさ迷って、打たれた岩から流れた水を飲んだことを思い出すものとして、岩の上に水が流れていました。岩のそばには、先祖たちがテントで生活し、荒野をさ迷ったことを示すテントもあったようです、しかし彼らの渇きをいやす生ける水を出す打たれた岩がありました。そのような絵は文字どおりには、主イエスが立って渇いている人たちに、彼に来て飲むよう叫ばれた時の背景であったかもしれません。

 流れる川についてのもう一つの参照はヨハネ第十九章三四節にあります。ここで主が十字架上で死なれた後、「ひとりの兵卒がやりでそのわきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た」と告げられています。これは打たれた岩から流れる水によって予表されていました。

(ウィットネス・リー, ライフスタディ  出エジプト記(第四集), 620-622)

 岩から流れ出た水は復活の中の命の水です。復活とは殺されたもの、そして再び生きているものを示します。それはまた、死を通過したものからわき出る命を示します。出エジプト記第十七章の生ける水は岩から出てきました。なぜ神は岩から水を出させたのでしょうか。神は全能であるから、彼は岩を用いる必要はありませんでした。彼はただ地を開き、生ける水をわき出させることもできたのでした。聖書の中では、この岩は神のあがないとキリストの受肉とを語っているのです。それはまたキリストの人間性とその死についても語っています。打たれた岩から流れ出た水は、受肉、人間の生活、そして死の後にわき出ました。それはキリストが成就されたこれらの主要な段階を経てはじめて流れたのです。聖書はその岩がキリストであったことをはっきりわたしたちに告げます。神であるキリストがどのようにして岩となり得たのでしょう。これは受肉と人間の生活をそれとなく言っています。岩となるために、キリストは受肉し、一定の期間、人々の間で生活しなければなりませんでした。そしてついに彼は十字架に上られた時、神の律法の権威によって打たれました。ですから第十七章六節は一つの深遠な節です。それはキリストの受肉、人間の生活、そして死を意味しています。

(ウィットネス・リー, ライフスタディ  出エジプト記(第五集), 643)

 今やわたしたちは聖書の中に描写された三つの絵を見るでしょう、流れ出る水を出す打たれた岩、その突き刺されたわきから血と水の流れる十字架上のキリスト、またそこから命の水の川が流れ出る御座の上の神です。これらの絵は三つの違う種類の水、すなわち岩から流れ出る水、イエスの体から流れる別な水、さらに神の御座から流れ出る別な水を象徴しているのではありません。そうではなぐこれらの絵の水はただ一づの水を言っているのです。ではどうして御言は岩、イエスの体、御座と別々に描写するのでしょうか。なおまたその流れる水の源は何でしょうか。それは岩ですか、イエスの肉体ですか、それとも御座ですか。啓示録第二二章一節によれば、生ける水の源は神の御座です。この節は命の水の川が御座から流れ出ていることを啓示します。

 生ける水の流れを伴う神の御座が、イエスが十字架につけられるずっと前、岩が打たれるより前に存在していました。御座から流れ出ている生ける水はキリストの死後ではなく、その前に流れ始めました。聖書の順序によれば、岩が最初で、イエスの肉体が第二、そして御座が第三です。しかし実際は御座が第一です。生ける水の流れは御座から始まりました。岩が打たれる前、キリストが十字架につけられる前、生ける水はすでに御座から流れていました。啓示録第二二章一節は出エジプト記第十七章とヨハネ第十九章の後に来るものだけを描写すると思ってはなりません。これは聖書全体を含むあるものの、何か永遠からのものの絵です。これは、その生ける水はキリストの受肉の前に流れていたことを示します。しかしながら受肉はその生ける水の流れにおいてさらに一歩を進めた段階でした。神は御座から飼い葉おけに、また大工の家庭に流れ込みました。三十三年半の後、神は十字架を通して流れ、またさらに復活の中で流れ続けました。

 聖書は神の流れの物語を告げます。何世紀にもわたり、神は流れ続けてこられました、そして今日も依然として流れておられます。その流れの中で彼は受肉、人間の生活、そして死を通過されました、そしてさらに彼は復活に入られたのです。今や復活の中で、彼はわたしたちが飲むべきその生ける水です。こういうわけで、わたしたちが今日享受する命の水は復活の中にあります。

(ウィットネス・リー, ライフスタディ  出エジプト記(第五集), 646-647)

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命の水はわたしたちの命となるために流れ出ている三一の神である

 命の水はわたしたちの命となるため流れ出ている三一の神です。命の水が三一の神であると言うことは、その神学において組織的で教義的である人たちにショックを与えるかもしれません。彼らはそのような言い方は異端と見なすかもしれません。命の水が神と小羊の御座から流れ出ることは、父なる神が源であること、子なる神が経路であること、そしてその霊なる神がその流れであることを示します。コリント第二の手紙第十三章十四節はこれを確証します。この節でパウロは言います、「主イエス・キリストの恵みと、神の愛と」聖霊の交わりとがあなたがた一同と共にあるように」。 ここにわたしたちは父の愛と御子の恵みとその霊の交わり、あるいは流れを持ちます。とれは生ける水としての三一の神です。今日わたしたちが飲んでいるこの命の水こそ、わたしたちの命となるために流れ出ている三一の神なのです。

 このような記述を読むとき、ある人たちは命の水は流れている神ご自身ではなく、神の命の流れであると議論するかもしれません。では何が神の命ですか。わたしたちにはこの質問に十分に答え、神の命が何であるかを十分に説明する方法がありません。しかしながらわたしたちの経験から、わたしたちは生ける水はまさに三一の神ご自身であることを知っています。

 三一を教理的な方法で理解しようとしてはなりません。そうではなく三一の神を経験的な方法で知ることを追求しなさい。来る日も来る日もわたしたちは、御父、御子、その霊の流れを経験することができます。わたしは日ごとに流れる三一の神のよき享受を持っていることを証しすることができます。この流れを離れては、わたしは次から次と直面するすべての艱難や困難に耐えることはできないでしょう。わたしたちの命の水としての三一の神の流れの経験に対し主を賛美します!

人間に届くため神はキリストの中に化身された

(1)人の間に住むために受肉された
わたしたちに流れ込もうとし、神は人間に届くためキリストの中に化身されました(ヨハネ一・十四)。これは神が人々の間に生きるために受肉されたことを意味します。主イエスは三十三年半、地上で生活されました。人なるイエスが地上に生きられた時、神が彼の中で生きられました。これは歴史の一事実です。

(2)解き放されるため十字架につけられた
 子供であったころ、わたしは主イエスが十字架につけられたことを残念だと感じました。キリストの十字架刑についてのわたしの理解はわたしの天然の観念によるものでした。十字架刑なしには、キリストの中に化身された神が解き放されるいかなる道もなかったでしょう。受肉を通し、神は主イエスの中に閉じ込められ制限されました。しかし十字架刑によって彼はこの拘束と制限から解き放されました。主イエスはかつて一粒の麦でした。もし彼が地に落ちて死ななかったとしたら、彼は一粒のままであったでしょう(ヨハネ十二・二四)、そして彼の中にあったものは解き放されなかったでしょう。しかし彼が地に落ちて死なれたため、彼は解き放されました。一粒の麦は多くの粒をもたらしました。神聖な命、神聖な性質、そしてすべての神聖な豊富はキリストの十字架刑によって解き放されました。

(3)命を与える霊となるため復活された
 受肉、十字架刑を通過された後、キリストは命を与える霊となるため復活きれました(Iコリント十五・四五)。今日キリストは命を与える霊であることを何度でも繰り返し指摘する負担がわたしにあります。

 始めから終わりまで聖書は三一の神の啓示です。創世記第一章二六節で神はご自身にあてて「われわれに」と言っておられます。これは神格の三一の性質に言及しているのです。聖書は多くのことについて語っていますが、その焦点は三の神が、受肉、人間の生活、十字架刑、復活を経過されて、すべてを含む命を与える霊となられたということです。わたしはこの驚くべき事実を宣言することに決して飽きることはありません。三一の神の流れは使い尽くすことができません。もし神聖な観点から聖書を読むなら、その啓示の中心点は三一の神と、彼が命を与える霊となるために経過された手順とに関係があることがわかるでしょう。

 その霊は命の水である

 その霊–命を与える霊–は命の水です(ヨハネ七・三八–三九)。わたしたちは命の水が三一の神であることを指摘してきました。今やわたしたちはその霊は命の水であると言っています。ある人たちは、命の水はその霊なのであるか、それとも三一の神なのであるかと思うかもしれません。このことについて聖書の神聖な啓示を理解する正当な道は、命の水はその霊であり、その霊は三一の神であり、三一の神は命の水であるということです。聖書に啓示されていることは、わたしたちに完全な円(サークル)をもたらします。ヨハネ第一章一節で、初めに言があった、言は神と共にあった、言は神であったと告げられています。ヨハネ第一章十四節は進んで、言は肉体となったと言います。肉体にあってキリスト、最後のアダムはその霊となりました、そしてその霊は言です(エペソ六・十七)。もしわたしたちがこの驚くべき啓示を享受することをしないで、それを教理的に分析したり、それについて論争をしたりするほうを選ぶとしたら、わたしたちは損失を被るでしょう。神聖な豊富をわたしたちは思うままに飲むことができるのです。もしそれらにあずかるなら、わたしたちは養われ、また豊かに供給されます。しかし、もしわたしたちが単にそれらを研究したり、分析したりするだけでしたら、わたしたちはこの享受と供給を奪い去られるでしょう。

(1)御座の神から流れ出ている

 命を与える霊は命の水として御座の神から流れ出ます(啓二二。一)。一方において御座に座しておられるかたは神です、他方において御座から流れ出る命の水もやはり神です。御座の上の神から流れる水は神の権威をもたらします。この水を飲む時、わたしたちは力と共に権威を受けます。わたしたちはわたしたちの内側を流れる生ける水によって従わせられます。

 なおまた神の御座から流れる生ける水は、神聖な命の豊富をわたしたちに伝達します。これは命の木が命の水の中で成長することによって示されます(啓二二・二)。神聖な命のもろもろの豊富はその生ける水の流れの中で運ばれますから、わたしたちはこの水を飲む時はいつでもこれらの豊富を受けます。

(2)打たれたキリストを通して流れる

 その霊は打たれたキリストを通して、裂かれた岩によって予表されたキリストを通して流れます(出十七・六。Iコリント十・四)。この流れはキリストの人間性、人間の生活、また死を含みます。わたしたちはわたしたちの内側の生ける水の流れによらないでは、主の人間性を味わい、経験し、享受することができません。この水を飲めば飲むほど、わたしたちは一層多くキリストの人間性、人間の生活、そして死を経験し、享受します。

(ウィットネス・リー, ライフスタディ  出エジプト記(第五集), 648-653)

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本ページ及び本ページにリンクされている記事はChristian Web Sites掲載のWitness Lee: Quotes on the Triune Godに基づいて構成されています。本ページに掲載されている内容の無断転載を禁じます。掲載されている書物および回復訳聖書の抜粋はliving Stream Ministryに著作権があり、JGW日本福音書房から許可を受けて掲載しています。


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